なぜ川越市に「霞ヶ関」という地名が生まれたのでしょうか。本稿では「霞ヶ関」の地名の由来に関する先行研究を紹介していきたいと思います。そして、それらの研究成果を踏まえて、「霞ヶ関」という地名について考察していきたいと考えています。
はじめに
なぜ川越市に「霞ヶ関」という地名が生まれたのか。このことを理解するためには、まず、以下の歴史的事実を押さえておく必要がある。
明治の町村合併に際して、入間高麗郡長が示した案は、笠幡村(現・川越市)、的場村(現・川越市)、安比奈新田(現・川越市)、柏原村(現・狭山市)の4か村合併だった。ところが、柏原村が離脱を希望して独立村となったために、笠幡村、的場村、安比奈新田の3か村合併による新村・霞ケ関村が誕生した。全国に町村制が施行された1889(明治22)年のことである。
「霞ヶ関」という地名は、古い時代に上広瀬村(現・狭山市)と柏原村の境界付近にあったと伝えられてきた関所に由来するものである。また、旧上広瀬村には「霞ヶ関」という小字〔こあざ〕もある。つまり、「霞ヶ関」は現在の狭山市域の地名なのである。柏原村が離脱したにもかかわらず、新村名には柏原村にゆかりをもつ地名をそのまま採用したことになる。
第二次世界大戦後、昭和の町村合併が行われ、1955(昭和30)年に霞ケ関村は川越市と合併して、川越市の一部となった。こうして川越市に「霞ヶ関」という地名が生まれることになった。狭山市域にあったと伝えられてきた関所名であり、小字でもあった「霞ヶ関」が、川越市の地名になったのである。
ただし、「霞ヶ関」という関所がどこにあったのかはわかっていない。というよりも、本当に関所があったのかもわからない。本稿では「霞ヶ関」の地名の由来に関する先行研究を紹介していきたい。そして、それらの研究成果を踏まえて、「霞ヶ関」という地名について考察していきたいと考えている。
1 「霞ヶ関」のいま
「霞ヶ関」という地名は、狭山市にある奥州道交差点の西側の地域(狭山市広瀬東)に残る小字である(注1)。かつての上広瀬村であり、柏原村との境界にあたる。現在の小字「霞ヶ関」地区は住宅街であるが、奥州道交差点付近は「富士ショッピングセンター」という小さな商店街になっている。また、「霞ヶ関」の名を冠した賃貸住宅のほか、「霞ヶ関」という名のバス停もある(写真)(注2)。
奥州道交差点から北は大きな坂になっている。これが信濃坂である(写真)。『新編武蔵風土記稿』には信濃坂は「小坂」と書かれている。しかし、現在の信濃坂は小坂とは言うにはやや大きな坂である。当時の信濃坂はどんな坂だったのだろうか。
『新編武蔵風土記稿』には、信濃坂の上に「霞ヶ関」という関所があったと記されている。現在、坂の上は工業団地と住宅地になっている。
坂の下には「歴史の道」と書かれた案内板が立っていて、次のように記されている。
鎌倉街道(かまくらかいどう)
鎌倉幕府の成立とともに整備されたといわれる中世の道「鎌倉街道」は、武蔵武士を代表する畠山重忠をはじめ新田義貞等多くの武将たちが、その栄枯盛衰の物語を刻みつけた道として、また、さまざまな文化の交流の場として利用され、狭山市の歴史の発展に大きな役割を果たした道です。
狭山市内を通過する鎌倉街道の伝承路は、児玉方面(群馬県藤岡方面)に向かう通称「上道〔かみつみち〕」があり、上道の本道(入間川道)と分かれた鎌倉街道には、堀兼神社前を通る道があります。このほか、「秩父道」などと呼ばれる間道や脇道もあります。
また、逆に「信濃街道」・「奥州道〔おうじゅうどう〕」といった鎌倉から他国への行き先を示した呼び方もあります。
狭山市
交差点の東側(狭山市柏原)は小さな公園になっていて、赤い帽子を被り、赤い前掛けをした地蔵が祀られている(写真)。脇の案内板には「影隠地蔵」とある(注3)。案内板に記された文は以下のとおりである。
影隠地蔵〔かげかくしじぞう〕
この地蔵尊が影隠地蔵と呼ばれるのは、清水冠者義高が追手に追われる身になったとき、難を避ける目的で一時的に地蔵の背後にその姿を隠したためといわれています。
義高は源義仲(木曽義仲)の嫡男で、義仲が源頼朝と対立していた際、和睦のために人質として差し出され、頼朝の娘である大姫と結婚しました。政略結婚とはいえ二人は幼いながらも大変仲がよかったと伝えられています。その後、義仲と頼朝は再び対立し、後白河法皇の命を受けた頼朝は、弟範頼・義経の軍に義仲の討伐を命じ、義仲は敗れて討たれました。
義高は我が身に難が及ぶのを避けるため、大姫のはからいで鎌倉から逃れ、父の出生地でもあり関係の深かった畠山重能の住む現在の比企郡嵐山町か、生まれ故郷である信濃国(長野県)へ向かいました。しかし、頼朝は将来の禍根を恐れ、娘婿の義高に追手を放ちました。命を狙われた義高は元暦元年(一一八四)四月、この入間川の地まできたときに、追手の堀藤次親家らに追いつかれ、一度はこの地蔵尊の陰で難を逃れたものの、ついには捕えられ、藤内光澄に斬られたといわれています。
地蔵尊はかつて木像で地蔵堂があり、その中に安置されていました。道路の拡張により現在の場所へ移動していますが、過去にも入間川の氾濫で幾度か場所が移動していると思われます。また、石の地蔵になったのは明治七年(一八七四)のことで、明治政府がとった排仏毀釈により、木像の地蔵が処分されたためと考えられています。不明な部分もありますが、義高の悲劇をあわれんだ村人が地蔵尊を建てたともいわれているなど、変わりゆく時代の中でも影隠地蔵はその歴史を後世に伝えています。
清和源氏略系図(略)
桓武平氏略系図(略)
平成二十四年三月
また、公園から道路を挟んだ反対側(狭山市広瀬台)には山﨑商店がある。霞ケ関郷土史研究会編『霞ケ関の史誌』、1990年、p.28には、山崎商店が写されている写真が掲載されていて、「霞ケ関関所跡(後の森)」というキャプションがついている。地域では、そのあたりが関所跡だと伝承されてきたのであろう。写真を撮った頃は森だったところも、同商店の裏の坂道を登っていくと、現在は住宅地になっている。
(注1)小字を調べるのは難しい場合も多い。幸いにも中野弘道 青木昇編『JA狭山市合併記念 平成版 狭山市土地宝典 地番・地目・地積入り 柏原 水富』、日本公図研究、1992年、1-15図で小字「霞ケ関」は確認できる。
(注2)狭山市の市内巡廻バス、茶の花号[水富コース](狭山市駅西口~入間野田モール間)のバス停。
(注3)『新編武蔵風土記稿』の上広瀬村の項に、「影隠し地蔵」の説明がある。(蘆田伊人 編集校訂『大日本地誌体系⑮ 新編武蔵風土記稿 第九巻』、雄山閣、1996年、p.142)。
地蔵堂 地蔵は長二尺餘の木像なり、土人これを影隠し地蔵と云、その故は往古村の艮にあたり、柏原村界霞ヶ關の邊古街道の側にありし時、木曽義仲の息淸水冠者鎌倉より逃去り、此地に至りしを追もの迫り來りければ、この地蔵の背後に影をかくし、危急を遁れしと、それより影かくし地蔵の稱あり、當院の境内に移せしは近世のことなり
※著者注)艮(うしとら)・・・丑と寅との中間の方角。北東。陰陽道で鬼門とされる。
なお、2022(令和4)年にNHKで放映された大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、歌舞伎役者の八代目市川染五郎が源(木曽)義高役を演じた。
2 記述されてきた「霞ヶ関」
川越市と合併した霞ヶ関地区では、霞ケ関郷土史研究会(前身は霞ケ関郷土会)によって『霞ケ関の歴史』(注1)、『霞ケ関の歴史 第二集』(注2)、『霞ケ関の史誌』(注3)、『川越市市制施行90周年記念 写真で見る霞ヶ関のあゆみ』(注4)が刊行されてきた。「霞ヶ関」の地名の由来については、これらの本のなかで繰り返し言及されている。新井博『川越の歴史散歩(霞ケ関・名細編)』(注5)でも、「霞ヶ関」の地名の由来が紹介されている。
「霞ヶ関」はもともと現在の狭山市域の地名である。そのため、「霞ヶ関」について数多くの資料を調査して、さまざまな考察を加えてきたのが、狭山市や狭山市立博物館である。『狭山市史 中世資料編』(注6)および『狭山市史 地誌編』(注7)には、「霞ヶ関」についての資料と解説が載せられている。さらに『狭山市史 民俗編』(注8)には、「霞ヶ関」付近の伝承が記録されている。また、1973(昭和48)年1月に発行された『広報さやま』には「史跡文化財めぐり(63) 史跡『霞が関』」が掲載されている(注9)。狭山市立博物館が2002(平成14)年に企画展を行った際に発行されたパンフレット『修験の世界―笹井観音堂とその配下―』(注10)にも、「霞ヶ関」の由来に関する記載がみられる。
私家版の『水富村郷土誌』(注11)には、明治期の地誌である「地誌編輯〔ちしへんしゅう〕」が収録されているほか、地元に伝えられてきた「霞ヶ関」の由来が記録されている。
近年では、谷川彰英『埼玉 地名の由来を歩く』(注12)が出版されて、「霞ヶ関」の地名の由来が紹介されている。その内容はインターネットにも掲載されていることから、「霞ヶ関」の地名の由来の認知度が高まっている。
(注1)霞ヶ関郷土会編『霞ヶ関の歴史』、1962年、p.4
(注2)霞ケ関郷土史研究会編『霞ケ関の歴史 第二集』、1970年、p.64
(注3)霞ケ関郷土史研究会編『霞ケ関の史誌』、1990年、p.28、p.36およびp.42
(注4)霞ヶ関郷土史研究会『川越市市制施行90周年記念 写真で見る霞ヶ関のあゆみ』、2012年、p.8~p.9
(注5)新井博『川越の歴史散歩(霞ケ関・名細編)』、川越郷土史刊行会、1982年、p.119
(注6)狭山市編『狭山市史 中世資料編』、狭山市、1982年、p.355~p.360およびp.365~p.384
(注7)狭山市編『狭山市史 地誌編』、狭山市、1989年、p.162~p.165およびp.654~p.655
(注8)狭山市編『狭山市史 民俗編』、狭山市、1985年、p.363
(注9)狭山市立図書館編『史蹟・文化財めぐり』、狭山市立図書館、1989年は、『狭山市政だより』および『広報さやま』に連載されていた「史跡文化財めぐり」をまとめたものである。「史跡文化財めぐり(63) 史跡『霞が関』」(1973年1月)のほかにも、「市史蹟文化財めぐり(一) 奥州道〔おうじゅうどう〕」(1966年8月)、「史蹟文化財めぐり(十三) 笹井観音堂」(1968年1月)、「史跡文化財めぐり(69) 篠井家の古文書」(1973年7月)、「史跡文化財めぐり(74) 解説の追録と訂正」(1973年12月)が本稿の内容に関係する。執筆者は、狭山市文化財調査委員(当時)の故・小谷野儀平氏である。
(注10)狭山市立博物館編『修験の世界―笹井観音堂とその配下―』、狭山市立博物館、2002年、p.7
(注11)山崎真太郎遺稿、山崎忠男編『水富村郷土誌』、1976年、写真「霞ヶ関趾附近」、p.86~p.87およびp.123~p.124
『水富村郷土誌』は、山崎真太郎氏の記録を遺族がまとめたものである。発行されたのは故人の17回忌の1976(昭和51)年であるので、実際に記述されたのは1960(昭和35)年より前ということになる。また、後述する「地誌編輯」が収録されているため、資料的価値も高い。
なお、『水富村郷土誌』には参考写真が挿入されているが、その中には「霞ヶ関趾附近」というキャプションがついた写真がある。どこを写したものなのかはわからないが、山崎商店の裏あたりと推察される。
(注12)谷川彰英『埼玉 地名の由来を歩く』、KKベストセラーズ、2017年、p.161~p.172
『新編武蔵風土記稿』は、江戸時代後期の村の様子が記された資料である(注1)。この資料では、上広瀬村や柏原村などの記述の中に「霞ヶ関」が登場する。『新編武蔵風土記稿』は「霞ヶ関」の地名の由来を考える際には、もっとも重要な資料である。なぜならば、「霞ケ関という関所があったかどうかについては、これ以外にその存在を記した史料はない」(注2)からである。これ以降、「霞ヶ関」について記述された文献は、そのほとんどが『新編武蔵風土記稿』をもとにして記述されている。
なお、本稿で使用しているテキストは、蘆田伊人 編集校訂『大日本地誌体系⑮ 新編武蔵風土記稿 第九巻』、雄山閣、1996年であり、文中に示されているページも、同テキストのものである。
資料1―1)(p.82)
又柏原村と廣瀬村界の東邊入間川を八町の渡しと云傳ふ、是ぞ堤などもて流をさゝえし廣潤なる所と思はるゝなり、又そのあたりを霞ケ關とて當國に名たゝる名所は此所なりと云
資料1―2)(p.85)
霞郷 合村六、今栢原村〔ママ〕の内霞ケ關の名跡あり、これより起りし名なるべし
資料1―3)(p.142)
〇上廣瀬村
霞ヶ關 村の東北柏原村の界にあり、舊蹟なることは柏原村の條に載す
資料1―4)(p.143)
〇柏原村
西の方上廣瀬村界の大路一條かゝれり、往古越後・信濃より鎌倉への往還にて、今は信濃街道と唱ふ、こゝに霞ヶ關と稱する名所あり、その南の小坂を信濃坂と唱ふ、坂上に古へ關のありけるよし、
其處も今は定かならず、古人の和歌二首、土人口碑に傳えふるもの左にのす、
春たつや霞か關をけさ越えて、さても出けん武蔵野のはら
徒つらに名をのみとめてあつまちの、霞の關も春そくれゆく
『新編武蔵風土記稿』からわかることは、江戸時代後期の上広瀬村、柏原村などの地域では、人々の間に以下のような認識が共有されていた、ということである。
ア)かつて上広瀬村と柏原村の境界付近に信濃街道が通っていて、信濃坂の上に霞ヶ関という関所があり、名所となっていた。だが、その場所がどこであるか、いまではわからない。
「霞ヶ関」は関所の跡だという。関所というと江戸時代の箱根の関所を連想する人も多いだろう。いわゆる「入り鉄砲に出女」を取り締まる警察的関所である。だが「霞ヶ関」があったとされる中世は、「通行人から関銭を徴収して利益を上げる」(注3)経済的関所が主流であった。ところが、「中世の関所は関銭をとることを目的としていたが、南北朝の争乱の時代になると、それが一転して軍事的・警察的機能をはたす関所に変った」(注4)のである。後述する関戸(現・多摩市)の関所は古代的な性格をもつ軍事的関所が、中世以降に拡充されたものと考えられている。
ところで、「霞ヶ関」は名所であったという。名所とは何だろうか。それは歌枕とほぼ同義語であると考えられる。歌枕とは、もともとは「歌を詠む際の手引となるもの、すなわち詠歌便覧・歌人必携というべきもの」を指していたが(注5)、やがて和歌に詠み込まれる名所・旧跡という意味に転じていった言葉である。武蔵国の歌枕として和歌に詠まれてきたみよし野(比定地のひとつが的場村)がその例である。東国に来たこともない京都で暮らす貴族たちが、名所・歌枕の情景を和歌に詠んできた。上広瀬村や柏原村の人々は、地域にあったと伝えられてきた「霞ヶ関」がそうした名所・歌枕のひとつとである、と認識していたのである。
イ)柏原村を含めて6村は霞郷といわれ、霞郷の名は霞ヶ関から起こった。
『新編武蔵風土記稿』によると、笹井村(現・狭山市)、根岸村(現・狭山市)、上広瀬村、下広瀬村(現・狭山市)、柏原村、田木村(現・日高市)の6村は、かつて加治領霞郷に属していた(注6)。そして、「霞郷」という名称は、「霞ヶ関」から名づけられたという。後述するが、この認識に対しては、研究者から疑問が投げかけられている。
ウ)霞ヶ関を歌枕とする2つの和歌が伝わっている。
『新編武蔵風土記稿』には「古人の和歌二首」が載せられている。この2つの和歌は、霞ヶ関の地名の由来が記述される際には、必ずといってよいほど引用されてきた。「古人の和歌二首」について検討してみたい。
ウー1)「徒つらに名をのみとめてあつまちの、霞の關も春そくれゆく」の検討
『狭山市史 地誌編』には
霞ヶ関の初見は『新拾遺集』にある
いたづらに名をのみとめて東路の
霞の関も春ぞくれぬる
である。
と記述されている(注7)。『新拾遺集』とは『新拾遺和歌集』のことであり、後光厳天皇の命により編纂された勅撰和歌集である。1364(貞治3)年末~65(貞治4)年始頃に完成した。
国際日本文化研究センター(日文研)のHP(注8)を検索すると、『新拾遺和歌集』の01557に読人不知の歌として「いたつらに-なをのみとめて-あつまちの-かすみのせきも-はるそくれぬる」の和歌が出てくる。『新編武蔵風土記稿』に載っている和歌は『新拾遺和歌集』から引用されたものであることが確認できる。
ただし、『狭山市史 地誌編』では「霞ヶ関の初見」と記述されているが、正確には「霞の関」である。日文研のHPで検索すると、「かすみのせき」でヒットする和歌は9件あるが、「かすみかせき」でヒットする和歌はない。
また「初見」という記述についても、再検討が必要である。日文研のHPを検索して調べると、「かすみのせき」でヒットした9件の和歌のうちもっとも古いのは、1200(正治二)年に後鳥羽上皇が企画した応制百首である『正治初度百首』に加えられた慈円(1155~1225)(注9)の「あさみとり-はるのこえゆく-あふさかを-かすみのせきと-ひとやみるらむ」(00605)である。したがって、「初見」として正しいのは、この慈円の和歌ではないかと思われる。なお、多摩市関戸の「霞の関」の設置については1213(建保元)年説が通説となってきた。1200(正治二)年はそれよりも早い。ただ、近年では「『霞の関』の建保元年新設説は成り立たない」(注10)とされており、慈円の和歌が初見であることと、「霞の関」の設置時期については特に矛盾はないと考えられる。
ウー2)「春たつや霞か關をけさ越えて、さても出けん武蔵野のはら」の検討
こちらの和歌についても日文研のHPで検索してみたが、まったくヒットしない。日文研のデータベースには、古代から中世にかけての歌集はほぼ網羅されているので、ここでヒットしない「春たつや」の和歌の出典を調べることは極めて難しいと思われた。
しかし、1973(昭和48)年1月に『広報さやま』に掲載された「史跡文化財めぐり(63) 史跡『霞が関』」(注11)には、次のような記述がある。
謡本宝生流、宝生重英著、東北(とうぼく)という、うたいがあります。その梗槪に…東国より出でたる僧、洛陽の色香の妙なるに憧れつつ、という書き出しで和泉式部(平安時代の歌人)の植えて愛でし軒端の梅…云々とあり、謡の本文に「是は東国方より出でたる憎にて候。我未だ都を見ず候程に、此春思ひ立ち都に上り候、春立つや霞の関を今朝越えて、霞の関を今朝越えて、果はあリけり武蔵野を分け暮しつつ跡遠き山また山の雲を経て……とあリます。
能楽「東北〔とうぼく〕」(注12)の謡〔うたい〕に「春立や、霞の関を今朝越えて、霞の関を今朝越えて、果てはありけり武蔵野を」という一節があることが指摘されている。「霞か関」と「霞の関」のちがいはあるが、この謡は「春立つや」の和歌の上の句とほぼ同じである。偶然の一致とは考えにくいので、何らかの関連があると思われるが、詳しいことはわからない。
ウー3)2つの和歌の位置づけ
江戸時代後期には、現在の狭山市周辺の人々は次のような認識をもっていたと思われる。上広瀬村と柏原村の境界付近にかつて「霞ヶ関」という関所があった。その「霞ヶ関」を歌枕とする2つの和歌が存在していることも、関所が存在していたことの傍証になっている・・・・・・。
しかし後述する『廻国雑記』に登場する「霞の関」は、多摩市関戸にあったことがほぼ通説になっている。そのため、「徒つらに」の和歌はもちろん、能楽「東北」から派生したと思われる「春たつや」の和歌も、狭山市域の「霞ヶ関」ではなく、多摩市関戸の「霞の関」を歌枕として詠まれた和歌であったと考えるのが自然である。
しかしその当時、現在の狭山市周辺に生きていた人々は、そのようには考えてはいなかっただろう。地域の知識人が『新拾遺和歌集』に載っている「徒つらに」の和歌を目にしたとき、これこそが「霞ヶ関」を歌枕にして詠まれたものであると考えたにちがいない。そして、その認識が『新編武蔵風土記稿』に掲載されたのではないだろうか。また「春たつや」の和歌についても、能楽「東北」を知った地域の人々が「霞の関」を狭山市域の「霞ヶ関」と判断したと考えられるのである。
なお、なぜ「霞の関」が歌枕になったのかということについて、興味深い考察を加えているのが『多摩市史 通史編 一』である(注13)。この説では、国司の離着任に着目している。多摩市関戸が、武蔵国の中でも相模国に近い地域だからこそ成立する仮説だといえる。
霞の関は数々の歌人等により歌枕として和歌に詠みこまれている(資一―六六六頁)。この中には、慈円・藤原定家・藤原道家など東国には行ったことが無い様な人々の作品が多い。この様な人々にも東路の霞の関が知れわたっていたのは何故であろうか。この問題の手掛かりになるのが都鄙(とひ)間交通の問題である。地方の情を京都にもたらす一つの手段として、国司の離着任にともなう人の移動がある。任国に赴任しでいた国司が、京都に帰り歌会などの場で任国の名所などを和歌に詠んだものが歌枕として定着したとは考えられないだろうか。
国司が受領として任国に下向していた平安中期ごろまでは、国境や国内の主要な境界地点などにおいて受領の下向を国衙の官人等が出迎える境迎(さかむかえ)という儀式があった。例えば、因幡国では美作国との国境であった境根で(『時範記』承徳三年二月十四日条)、大宰府では防衛線であった水城で境迎が行われており(『大弐高遠集』)、その場所や儀式の内容は国毎に違いがあったようである。ここからは推測になるが、相模国から北上して武蔵国に入った武蔵守は霞の関において武蔵国衙の官人等の境迎を受けたのではないだろうか。この様にして、武蔵国に赴任した受領の誰もが、霞の関を武蔵入国のランドマークとして意識していたのであれば、任を終えて帰京した受領等によって霞の関という地名が名所として京都に伝えられたとも考えることができる。また、和歌に詠まれた霞の関は春にかけられており、外官(国司)が春の県召除(あがためしじもく)の後に任国に赴任する季節と合致することも傍証になるのではないだろうか。さらに、境迎や境送などの儀式は、受領ばかりではなく庶民にも広がりを見せており、府中の住民が旅などの際に境迎・送を行う場所の一つとして関戸の霞の関が認識されていたと考えられる。
(注1)国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第七巻』、1986年、p.926によれば、『新編武蔵風土記稿』は幕府が編纂した武蔵国の地誌である。1830(天保元)年に幕府に上程されている。調査すべき内容としては、「町村名の起源沿革、地形、土質、近隣町村、道路、江戸日本橋よりの行程、田畑の割合、物産、戸数、検地年代、支配、高札場、小名、山川池沼、用水、寺社」などの項目が示されている。
(注2)狭山市編『狭山市史 中世資料編』p.356
(注3)河合敦『関所で読みとく日本史』、河出書房新社、2021年、p.66
なお、中世の関所についての本格的な研究としては、相田二郎『中世の關所』、有峰書店、1972年(復刻増補版、初版は1943年の畝傍書房刊)がある。
(注4)大島延次郎『改訂版 関所』、新人物往来社、1995年、p.49
(注5)『国史大辞典 第二巻』、1980年、p.108
(注6)『新編武蔵風土記稿』p.135(篠井村〔笹井村)〕、p.138(根岸村)、p.139(上廣瀬村)、p.142(下廣瀬村および柏原村)、p.153(田木村)
なお、埼玉県編『武蔵國郡村誌 第五巻』、埼玉県立図書館、雄文閣、1954年、p.131およびp.193には、この6村に加えて仏子村と野田村も「古時霞郷加治領に属す」と記されている。
(注7)狭山市編『狭山市史 地誌編』p.162
(注8)国際日本文化研究センター(日文研)のHPでは、古代から中世にかけての和歌の歌集のデータベースを作成している(https://lapis.nichibun.ac.jp/waka/menu.html)。キーワード検索もできて、たいへん便利なHPである。
(注9)『国史大辞典 第六巻』、1985年、p.648~p.649によると、慈円は摂関家に生まれたが仏門に入った「鎌倉時代前期の天台宗の僧」である。後鳥羽上皇に引き立てられて、大僧正に上り詰めたが、公武協調路線を主張したために後鳥羽上皇と対立した。歴史書『愚管抄』を記したのは、この頃のことである。また、歌人としても優れ、『新古今和歌集』には92首が入選している。自身の歌集に『拾玉集』がある。
なお、2022(令和4)年にNHKで放映された大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、声優・タレントの山寺宏一が慈円役を演じた。
(注10)多摩市史編集委員会編『多摩市史 通史編 一』、多摩市、1997年、p. 614
(注11)狭山市立図書館編『史蹟・文化財めぐり』、狭山市立図書館、1989年に収録されている。
(注12)梅原猛 観世清和監修『能を読む③ 元雅と禅竹 夢と死とエロス』、角川学芸出版、2013年、p.307には、能楽「東北〔とうぼく〕」のあらすじが次のように紹介されている。
東国から上洛した僧(ワキ)と従僧(ワキヅレ)が咲き誇る東北院〔とうぼくいん〕の梅に目をうばわれていると、門前の者(アイ)がその梅は和泉式部が植えた「和泉式部」という名の梅だという。続いて里女(前ジテ)が現われ、その名は「軒瑞の梅」が正しく、近くの方丈は昔は和泉式部の寝所であることなどを語り、自分はこの花に住む者だと言って、花の蔭に消える。門前の者から東北院のことを聞いた僧が花陰で弔っていると、和泉式部の霊(後ジテ)が往時の姿で現れ、「門の外法の車の音聞けばわれも火宅を出でにけるかな」という自身の歌を口にして、この歌で成仏が叶い、歌舞の菩薩となったが、僧の回向のおかげでさらに悟りが得られたと語り、あらためて和歌の徳と極楽浄土に等しい東北院のたたずまいを賛美しつつ舞う。やがて、式部は方丈の寝所へ帰ってゆくのだった。
なお、同書p.317には「霞の関」と「果てはありけり武蔵野を」の注釈として、次のような記述がある。
・霞の関
東京都多摩市関戸にあった関。
・果てはありけり武蔵野を
『新古今集』秋「武蔵野や行けども秋の果てぞなきいかなる風か末に吹くらん」(源通光)をふまえ、「果てはありけり」とした。
(注13)『多摩市史 通史編 一』p.611~p.612
(2)『武蔵國郡村誌』
明治新政府は、1875(明治8)年に「皇国地誌」を作成することを決定し、各県などに管内を調査して、政府へ提出することを命じた。だが、この調査によって集められた「皇国地誌」の原本は、関東大震災で失われてしまった。ところが、第二次世界大戦後の1948(昭和23)年、埼玉県庁の倉庫から埼玉県が作成した「皇国地誌」の複本が発見された(注1)。これが『武蔵國郡村誌』である。
『武蔵國郡村誌』には、「上広瀬村」のところに「霞ヶ関」に関する記述がある(注2)。
資料2-1)(p.181)
〇上広瀬村
字地
(前略)
霞ヶ関 今宿の南に連る東西五町二十間南北一町五十間
町田 霞ヶ関の南に連る東西三町十間南北一町五十間
資料2-2)(p.183)
古跡
霞ケ関 村の東北柏原村の界にあり往昔信濃より鎌倉への往還なり方今猶切通及関跡ありて字に称する
『武蔵國郡村誌』に記述されていることは、以下のとおりである。
ア)上広瀬村には「今宿」の南、「町田」の北に「霞ヶ関」という字〔あざ〕があった。
イ)上広瀬村と柏原村の境界には、かつて信濃と鎌倉を結ぶ街道があったが、そこには今でも切通と関所の跡があり、「霞ヶ関」という字が残っている。
まず重要なのは、現在も狭山市広瀬東に残る小字「霞ヶ関」が確認できることである。この字名がいつ頃から使われていたのかは明らかではないが、少なくても明治前期には存在していたことが確認できる。
次に、関所跡の問題が登場する。江戸時代後期の『新編武蔵風土記稿』には、以下のように書かれていた。
往古越後・信濃より鎌倉への往還にて、今は信濃街道と唱ふ、こゝに霞ヶ關と稱する名所あり、その南の小坂を信濃坂と唱ふ、坂上に古へ關のありけるよし、其處も今は定かならず
信濃坂の上に「霞ヶ関」という関所があったが、その場所はどこにあったのかわからない、という記述である。ところが、明治前期の『武蔵國郡村誌』では、切通があり、「関跡」が存在すると記述されている。後述する「地誌編輯」でも「霞ケ関跡」に「関守ノ跡」とあり、『入間郡誌』では「關守の跡あり。果して霞關なるやを知らず」と書かれている。
だが、江戸後期から明治前期の間までに、遺跡等が見つかったという記録はない。では、記述された「関跡」、「関守ノ跡」および「關守の跡」とは何なのだろうか。それについては、後に考察を行うことにしたい。
(注1)川越市立中央図書館編『川越市立中央図書館所蔵郷土資料への道案内』、川越市中央図書館、2007年、p.43~p.44
(注2)『武蔵國郡村誌 第五巻』p.181およびp.183
(3)「地誌編輯〔ちしへんしゅう〕」
「地誌編輯」は『水富村郷土誌』に収録されている。『水富村郷土誌』は、山崎真太郎氏の遺稿を遺族が発行した私家版の郷土誌である。
『水富村郷土誌』の「あとがき」(p.146~p.147)によると、「『地誌編輯』は当時全国一勢に統一書式で調査されたもので、郷土史には最も重要な史料ですが、現在見当たらないとの事ですので、写しですが載せさせて戴きました」とある。「地誌編輯」は水富村役場が作成したが、その原本は失われてしまった文書だという。明治政府が推進した「皇国地誌」編纂事業は未完に終わり、その原稿の多くも関東大震災で焼失してしまった。わずかに残された原稿の写しの一つが「明治二十年 地誌編輯」だと考えられる。
なお、水富村は明治の町村合併で誕生した村である。根岸村、上広瀬村、下広瀬村、笹井村の4村合併によって成立した。上広瀬村が含まれるため、「霞ヶ関」に関する記述が登場する。
資料3-1)(『水富村郷土誌』p.119~p.123)
明治二十年 地誌編輯 高麗郡上広瀬村
(中略)
名勝
霞ケ関蹟
所在 村ノ東北ニ位ス。柏原村ト界ス。
景致 上ハ山林ニシテ下ハ一円平坦ノ田ナリ。高サ七丈、東方ニ突出シテ切通ナリ。
雑項 往古越後信濃ヨリ鎌倉ヘノ往還ニテ関守ノ跡アリ。信濃街道ト云フ。田ノ中ニ架ス。石橋ニ越後ノ人ノ寄附シタル名アリ。
古歌ニ、春立つや霞ケ関を今朝越えて
さても出けん武蔵野の原
徒らに名をのみとめて東路の
霞ケ関も春ぞくれゆく
此ノ地ノ字ヲ霞ケ関ト云ヒ、又オージュー道ト呼ブガ奥州道ノ訛ナリ。又ココノ坂ヲ信濃坂ト云フ。
聖護院門跡道興准后ガ東国遍歴ノ際、佐西観音堂ニ宿泊ノ砌リノ詠歌ニ、
都にといそぐ吾をばよもとめじ
霞ケ関も春を待つらん
資料3-2)(『水富村郷土誌』p.123~p.124)
明治二十年 地誌編輯 高麗郡上広瀬村
古跡
(中略)
八丁渡
所在 居村東方霞ケ関ヨリ入間川村子ノ神ノ間ナリ。
現状 今ハ水田ニシテ、信濃街道ニテ柏原村ト界ス。
影隠地蔵尊
所在 居村ノ艮ニアタリ柏原村界霞ケ関ノ辺古街道ノ側ニアリ。
現状 石地蔵尊ニテ高サ約三尺ナリ。
雑項 往古ハ地蔵堂アリ。地蔵ハ長サ二尺余ノ木像ナリ。永寿三年木曽義仲ノ息清水冠者鎌倉ヨリ逃去リ、此ノ地ニ至リテ追モノ来リケレバコノ地蔵ノ後ニ影ヲカクシ危急ヲ遁レシト。ソレヨリ影隠地蔵尊ノ称アリ。元弘三年兵火ノ為メ烏有ニ帰シ後、石ノ地蔵尊ヲ建立セシガ故アツテ近世正覚院ノ境内ニ移ス。
後記 明治七年叉モトノ霞ケ関ニ移ス。
「地誌編輯」に記述されていることは、以下の内容である。
ア)信濃街道に関守の跡がある。
イ)田の中にかかる石橋には、寄附した越後の人が名がある。
ウ)この地の字を霞ヶ関という。奥州道をオージュー道と訛って呼んでいた。
エ)聖護院門跡の道興准后が東国遍歴した際に、笹井観音堂に宿泊したときに詠んだ歌がある。
1887(明治20)年の「地誌編輯」の写しの内容は、「関守ノ跡」や「霞ヶ関」という字〔あざ〕があることなど、『武蔵國郡村誌』と大差はない。また、奥州道をオージュー道と訛って呼んでいたことについては、『狭山市史 民俗編』でも確認できる(注1)。
道興が笹井観音堂に宿泊したことについては、後述する。なお、「都にといそぐ吾をばよもとめじ 霞ケ関も春を待つらん」という和歌は、道興が記した『廻国雑記』に登場するが、この和歌は笹井観音堂に宿泊したときのものではなく、「霞の関」で詠んだものである。
(注1)『狭山市史 民俗編』p.363には、次のような記述がある。
霞が関 柏原
奥州道〔おおじゅうどう〕は昔、「霞が関」といわれる関所があったところだといわれている。
(話者 柏原 金子銀三郎氏 明治三十八年生)
おおじょうどう 柏原
「おおじゅうどう」のことを「おおじょうどう」といった。それはここにはきびしい関所があった。昔、お武士〔さむらい〕が関所から逃げたところを、斬り殺されここでおおじょう(往生)したので、おおじょうどうと呼んだ。
(話者 柏原 金子銀三郎氏 明治三十八年生)
(4)『入間郡誌』
『入間郡誌』は安部立郎〔あんべ たつろう〕(1886~1924)が編纂した地誌である。1913(大正2)年に出版された。安部立郎は川越出身で、図書館設立に努めるとともに、郷土資料を収集した。なお、ここで使用しているテキストは安部立郎編『埼玉県入間郡誌(復刻版)』、千秋社、2003年であり、文中に示されているページも、同テキストのものである。
資料4-1)(p.434)
第八節 柏原村
鎌倉及南北朝の時代には鎌倉街道の要地に當り、水富村の境に當て所謂霰ケ關〔ママ〕の趾あり。今も村内に信濃道及奥州道と稱する古道の跡あり。
資料4-2)(p.435~p.436)
(四)古蹟
霞ヶ關趾 水富村との境界線に當り、低地より高臺に登る坂上にあり。附近に大なる榎あり。村内に存する俗稱黒米屋及白米屋の先祖は關に近く旅宿を開業したりしものと言ひ傳へらる。
春立つや霞ヶ關を今朝越えてさても出てけん武蔵野の原。
いたづらに名をのみとめて東路の霞の關も春ぞ暮ゆく。
資料4-3)(p.444)
第九節 水富村 〔二〕上下廣瀬
霞か關趾 上廣瀬の東北にあり、柏原村と接せり。北は一面の高臺にして、南は低地、其斷崖高さ五六丈、往古越後、信濃地方より鎌倉に通ずる要所に當り、關守の跡あり。
果して霞關なるやを知らず。
資料4-4)(p.537)
第四節 霞ヶ關村 〔一〕總説 (二)沿革
十七年笠幡村外三村聯合、二十二年恐らくは依然柏原村を併せて一村を成し、霞ヶ關趾に因て霞ヶ關村と名けしに、後柏原村は一村に獨立したるものなるべし。二十九年入間郡に入る。
『入間郡誌』で記述されていることは、以下のことである。
ア)柏原村は鎌倉及南北朝の時代には鎌倉街道の要地に当たり、水富村(明治の町村合併で上広瀬村、下広瀬村、根岸村、笹井村が合併して成立)の境にいわゆる「霞ヶ関」の跡がある。今も村内に信濃道及奥州道と称する古道の跡がある。
イ)「霞ヶ関」跡が柏原村と水富村との境界線にあたりで、低地より高台に登る坂上にある。付近に大きな榎の木がある。村内に存する俗称「黒米屋」及「白米屋」の先祖は、「霞ヶ関」近くに旅宿を開業したと言い伝えられている。
ウ)昔から越後、信濃地方と鎌倉を結ぶ要所にあたるため、関守の跡があるが、これが霞ヶ関かどうかはわからない。
エ)1884(明治17)年に笠幡村と外三村(的場村、安比奈新田、柏原村)との連合戸長役場が笠幡村に置かれた。1889(明治22)年に柏原村を含んだ4村が合併して一つの村となり、霞ヶ関跡にちなんで霞ヶ関村と名づけられたが、後に柏原村は一村で独立した。
これらの記述から、『武蔵國郡村誌』や「地誌編輯」と同様に、何らかの関所の跡、痕跡のようなものがあったようにも読み取れるが、具体的なことが記されていないのでよくわからない。大きな榎の近くに何かがあったのだろうか。
また、俗称「黒米屋」及「白米屋」とは屋号なのだろうか。大正初期にこの地域にあった商家なのかと思われるが、これについてもよくわからない。ただし、鎌倉街道が交通の要衝で、旅宿が繁盛するような立地であったことは読み取れる。
明治の町村合併についての記述もあるが、この記述は正確ではない。柏原村の離脱は霞ケ関村の成立よりも前のことである。
4 『廻国雑記』と「霞の関」
「霞ヶ関」の地名の由来を考えるときに、内容を確認しておきたい室町時代の書物がある。『廻国雑記』〔かいこくざっき〕という旅の紀行文である。『廻国雑記』には他にもテキストがあるが、代表的なものは江戸時代後期に塙保己一〔ほなわ ほきいち〕(1746~1821)が編纂した『群書類従』〔ぐんしょるいじゅう〕に収録されている。
霞ヶ関地区には埼玉県立特別支援学校塙保己一学園がある。塙保己一学園のある霞ヶ関の地名の探究に、塙保己一も少しだけ関係していると考えるのは、こじつけすぎだろうか。
(1)『廻国雑記』と道興
『廻国雑記』は、室町時代中期に京都の聖護院〔しょうごいん〕門跡(注1)であった道興〔どうこう〕(1430?~1501)によって記された紀行文である。道興が旅立ったのは、応仁の乱(1467~77)が終わって9年目の1486(文明18)年のことである。
聖護院は修験道〔しゅげんどう〕の総本山的なポジションにあった寺院である。時代は下るが江戸時代になると、幕府は修験道の寺院を、原則として聖護院を本山とする本山派か、醍醐寺塔頭の三宝院を本山とする当山派のいずれかに所属させて統制するようになる(注2)。
道興は「関白、近衛房嗣の二男として摂関家に生れた。幼くして出家し、早くから仏道に精進した。天台宗の顕密両教を学び、それらに通暁するに至り、やがて聖護院門跡第二十四世とな」った(注3)。「聖護院門跡としての道興は修験の道に精進するとともに、その一方では、風雅の道にも心を寄せ、漢詩文・和歌・連歌などにも長じていた。それは『廻国雑記』の中に見られる多くの詩歌によっても知られる」ことであった(注4)。
『廻国雑記』の旅は、北陸、関東、東北を巡るものであったが、この旅は私的なものではなかった。『廻国雑記』を理解するための基本文献である『廻国雑記の研究』には、次のように記されている(注5)。
それはおそらく、その当時の宗門における政治的意図を持つものであったのであろう。すなわち、室町幕府の権勢がようやく衰退のきざしを見せ、その威令や統制に徹底を欠くような時代を迎え、宗門の上にもそのような傾向が見られるようになる。そのため、聖護院傘下の修験道の寺坊及びその霞などの統轄及び、それらの結束の強化を計るとか、修験道内部における本山派・当山派などの対立を柔げるとか、あるいは、白山などに見られる修験道の社人社僧と、浄土真宗の僧徒との抗争という、当時の宗教上の争いに対する慰撫工作を計るなどの目的を持つものであったとも考えられる。また、その時代は寺社の財力や権力が、各地の豪族の勢力争いに直接結びつくものであったから、関白の兄である摂関家の一人として、あるいはまた、将軍義政、義尚父子によって信頼され、その軍陣にも従った護持僧として、朝廷や幕府の立場に立って、下剋上的紛争の絶えない地方の豪族たちの動向を探り、殊に都から遠隔の地である東国やみちのくの情勢を視察する政治的意図を持つ旅であったかも知れない。
ここで触れられている「修験道」や「霞」については後述する。
道興の旅は公的な性格のものだった可能性が高いが、『廻国雑記』はまったく私的な紀行文であり、その記載には「宗教的、政治的なものは全く認められない」(注6)のである。
(注1)門跡〔もんぜき、もんせき〕とは、皇族や公家(特に近衛家のような摂関家)が住職を務める仁和寺や聖護院のような寺院のこと、もしくはそれらの寺院の住職のことである。
(注2)本山派と当山派のほかにも、「羽黒山・日光山・富士山・白山・立山・石鎚山・彦山など地方でも修験は活発な活動を行なった」(宮家準『修験道 その歴史と修行』、講談社、2001年、p.4)。このうち、羽黒山を拠点とする修験は、「霞ヶ関」の由来にも関係している可能性がある。そのことについては後述する。
(注3)高橋良雄『廻国雑記の研究』、武蔵野書院、1987年、p.18
(注4)高橋良雄『廻国雑記の研究』p.23
(注5)高橋良雄『廻国雑記の研究』p.17
(注6)高橋良雄『廻国雑記の研究』p.17
(2)『廻国雑記』と「霞の関」
『廻国雑記』の旅は、北陸、関東、東北をその舞台としているが、その中にはさまざまな地名が登場する。
1486(文明18)年6月に京都を後にした道興は、北陸を経て、7月の関東へ入り、上野国→武蔵国(をしまの原→武蔵野→岡部の原→村君→浅間川)→下総国→上総国→安房国→相模国→下野国→常陸国→下総国→武蔵国(岩つき→浅草→浅草寺→まつち山→浅茅が原→おもひ川→隅田川→忍の岡→小石川→鳥越の里→芝の浦→荒井→まりこの里→駒林→新羽→かたびらの宿→岩井の原→もちゐ坂)→相模国→伊豆国→駿河国→相模国を経て、三たび武蔵国を訪問する。
このとき、武蔵国を巡廻したルートは、相模国の「熊野堂」から「小野」を経て武蔵国に入り、半沢→霞の関→恋が窪→むねをか→堀兼の井(高井戸)→やせの里→入間川→佐西(観音堂)→くろす川→大塚(十玉坊〔じゅうぎょくぼう〕)→河越(景勝院・常楽寺)→大井川→月よし→うとふ坂→すぐろ→野寺→野火留→ひざをり→ところ沢(観音寺)→くめくめ川(久米川)と移動して、大塚(十玉坊)で年越しをするというものであった(注1)。
これらの地名は現在のどこにあたるのか。三度目の武蔵国訪問のルートのうち、相模国の「熊野堂」から武蔵国の「恋が窪」までの地名について考えてみたい。地名の比定については、栗原仲道『廻国雑記 旅と歌』の記述を中心にすすめる(注2)。相模国の「熊野堂」は厚木市愛甲、「小野」は厚木市小野である。ここから武蔵国へ入る。「半沢」は町田市図師町、「霞の関」は多摩市関戸、「恋が窪」は国分寺市の旧恋ヶ窪村(現在の東恋ヶ窪、西恋ヶ窪などの地域)であると考えられる。
『廻国雑記』の「霞の関」が狭山市の「霞ヶ関」のことを指しているという考える説もあるが、この旅のルートをみると、その説にはかなり無理があると言わざるを得ない(注3)。関戸のあたりは古くから重要な街道が通っていたが、鎌倉幕府が成立すると、鎌倉防衛のための「軍事上の意義が強」い(注4)施設として関戸の関所が整備されたと考えられている。
多摩市関戸からは発掘によって関所跡がみつかっている。「熊野神社境内の参道に平行して、当時の柵跡がいくつか残っている。これは地下およそ三十センチメートルから四十センチメートルのところに、約四十五センチメートル間隔で存在しているが、その柵穴から推定すると、柵は直径二十五・六センチメートルもある丸木を使ったと思われる。柵跡は街道西側(熊野神社側)に十六個東側に七個の合計二十三個が発見されている」(注5)。
道興は霞の関を次のように記述している(注6)。
名に聞し霞の關を越て、これかれ歌よミ連哥なと言捨けるに、
吾妻路の霞の關にとこしえハ我も都に立そかへらん
都にといそく我をハよもとめし霞の關も春を待らむ
「名に聞し」とあるとおり、「霞の関」は名所・歌枕として有名だったことがわかる。「霞の関」が名所・歌枕になった理由については、すでに『多摩市史 通史編 一』の仮説を紹介した。
ところで、道興は笹井村の「佐西〔ささい〕(観音堂)」に4~5日、滞在している。この笹井観音堂については後述するが、この地域の修験道の中心であった。
(注1)高橋良雄『廻国雑記の研究』p.11~p.14
(注2)栗原仲道『廻国雑記 旅と歌』、名著出版、2006年、p.131~p.160
同書では、三度目の武蔵国で訪問した地名を次のように比定している。
・半沢・・・町田市図師町
・霞の関・・・多摩市関戸
・恋が窪・・・国分寺市
・むねをか・・・志木市宗岡
・堀兼の井・・・狭山市入曽か
・やせの里・・・入間市
・佐西・・・狭山市笹井
・くろす川・・・黒須川、霞川、桂川
・大塚(十玉坊)・・・かつては川越市南大塚とされていたが、現在は志木市幸町、志木市宗岡、富士見市下南畑などの説がある。なお、十玉坊はその拠点をたびたび移動している。
・河越・・・川越市(景勝院は川越市上寺山、常楽寺は川越市上戸)
・大井川・・・入間川
・月よし・・・川越市月吉
・うとふ坂・・・川越市岸町
・すぐろ・・・坂戸市勝呂
・野寺・・・新座市野寺
・野火留・・・新座市野火止
・ひざをり・・・朝霞市膝折町
・ところ沢・・・所沢市
・くめくめ川・・・東村山市久米川町
(注3)『廻国雑記』に記述された「霞の関」が、多摩市関戸にあたるとする説が定説となっていることについては、以下の資料等でも言及されている。
『狭山市史 中世資料編』p.355~p.360
『多摩市史 通史編 一』p.610~p.613
谷川彰英『埼玉 地名の由来を歩く』、KKベストセラーズ、2017年、p.170~p.172
(注4)多摩町誌編さん委員会編『多摩町誌』、多摩町役場、1970年、p.88
(注5)『多摩町誌』p.88~p.89
(注6)埼玉県編『埼玉県史 資料編8 中世4 記録2』、埼玉県、1986年、p.716
5 「霞」とは何か-霞郷と笹井観音堂-
前述したが、『新編武蔵風土記稿』によると、笹井村、根岸村、上広瀬村、下広瀬村、柏原村、田木村の6村は、かつて加治領霞郷に属していたという。
郷は律令制のもとで生まれた行政単位であるが、中世になると、郷は郡と併存する行政単位に変質していた。『狭山市史 中世資料編』の「解説三 郷村の成立」には、次のように記されている(注1)。
霞郷は中世末期から称えられた郷名であって、笹井・根岸・上広瀬・下広瀬・柏原の各村々が属していた。すなわち、現在の日高町から狭山市にかけての地区を霞郷と呼んでいたのである。これは霞ケ関という名が残っていたからこう呼ばれたというより、修験道の「かすみ」から名づけられたものというべきで、そのことは中世において笹井の観音堂の勢力が広範にわたっていたということができよう。
(中略)
霞郷の形成については、笹井の観音堂が強力に作用したということを特に述べておきたい。
笹井観音堂(注2)はこの地域における、修験道本山派の中心的存在であった。「修験道は山岳を神霊・祖霊などのすまう霊地として崇めた我が国古来の山岳信仰が、シャーマニズム、道教、密教などの影響のもとに平安時代末頃に一つの宗教形態を形成したものである」(注3)。鎌倉時代になると、鎌倉新仏教が広まったことによって修験道は衰退するが、「醍醐寺(京都)を開いた聖宝〔しょうぼう〕が修験道を理論化したことにより、ふたたび盛んになりはじめ」(注4)、「その後、修験道は天台宗系と真言宗系に分かれ、前者は園城寺の末で増誉が開いた聖護院を本山に本山派と称し、後者は聖宝が開いた醍醐寺三宝院を本山に当山派と称し」た(注5)。
「室町時代になると、本山派、当山派ともに、地方修験を本山に組織化するようになり、(中略)1486(文明八)年、聖護院門跡の道興准后が笹井観音堂を訪れ滞在してから以後、聖護院との結びつきはいっそう強くな」った(注6)。このとき、道興は笹井観音堂に4~5日も滞在している(注7)。この滞在も作用していると思われるが、笹井観音堂は「中世には当地方にあって多くの山伏を配下に治め絶大な権力を有し」(注8)、「享禄五年(一五三二)五月朔日、乗々院大僧正により杣保〔そまほ〕(多摩郡のうち青梅市を中心とする一帯)から高麗郡にかけての年行事職に安堵され」た(注9)。つまり、その地域の修験道における支配的な地位についたということになる。さらに「それより後、所沢衆分・三ケ島衆分・山口宝智坊のことなども領知すべき旨を命ぜられている」(注10)。『廻国雑記』で道興が長らく滞在していた十玉坊は、入東郡(入間郡東部)を管轄していたが、「その後、十玉坊は衰え、佐西観音堂(狭山市笹井)が高麗郡および所沢周辺を支配した」(注11)のである。また、「戦国末期、入間市域の修験は佐西観音堂に属していた」(注12)。笹井観音堂は、現在の狭山市、日高市、入間市、所沢市、青梅市などの地域の修験道の寺院を取りまとめる地位についたのである(注13)。
ただし、戦国時代になると、こうした修験道の支配地域は「聖護院の安堵状だけでは守りきれなくなり、戦国大名が追認するようになる」(注14)。つまり、聖護院だけではなく、後北条氏にも認められる必要が出てきたのである。一方、後北条氏側にも、山伏の軍事力を利用するなど、笹井観音堂を配下に置いておくことにはメリットがあったので、後北条氏は聖護院による安堵を追認していった(注15)。こうして笹井観音堂は「本山派聖護院末諸国二十七先達のひとつとして、室町時代から江戸時代にかけては、高麗郡、多摩郡、入間郡内の54か寺を配下に従える大寺」(注16)になったのである。
笹井観音堂など、本山派に属する修験道寺院の配下を「霞(かすみ)」という。『新編武蔵風土記稿』には「霞郷 合村六、今栢原村〔ママ〕の内霞ケ關の名跡あり、これより起りし名なるべし」と書かれているが、『狭山市史 中世資料編』の「解説三 郷村の成立」で述べられているのは、「霞郷」という名称は、修験道との関係でつけられたと考えるべきではないか、という推察である。つまり、笹井観音堂の配下にある地域、すなわち「霞」となった村々が、霞郷と呼ばれるようになったというのである。(注17)。
笹井観音堂が修験を支配した地域には、「霞」がつく地名が多い。『角川日本地名大辞典』(注18)には、
〇埼玉県
・霞ケ丘〔上福岡市(現・ふじみ野市)〕
・霞ケ関〔狭山市〕
・霞川〔入間市・狭山市〕
・霞郷〔日高町(現・日高市)・狭山市〕
〇東京西部
・霞川〔青梅市〕
・加住丘陵〔八王子市〕
・加住村〔八王子市〕
・霞村〔青梅市〕
といった地名が掲載されている。霞川〔青梅市〕については「天寧寺霞ケ池を水源とし霞ケ関・今井を経て埼玉県入間郡に入り、同郡豊岡町で入間川に注ぐ」「霞川は霞ケ池から転じたもの」と記述されている。
(注1)『狭山市史 中世資料編』p.458~p.459
(注2)笹井観音堂と修験道については、『狭山市史』等などで詳しく説明されている。
『狭山市史 中世資料編』p.3~p.15、p.343~p.354およびp.372~p.384
『狭山市史 地誌編』p.157、p.201~p.220、p.628~p.633およびp.640
狭山市編『狭山市史 通史編Ⅰ』、狭山市、1996年、p.362~p.370
狭山市立博物館編『修験の世界―笹井観音堂とその配下―』
これらの記述によれば、笹井観音堂は702(大宝二)年に役小角〔えんのおづぬ〕によって開かれたと伝えられている。役小角は本尊として不動明王を祀った。この頃はまだ笹井観音堂ではなく、滝音山泊山寺と称していた。やがて、時とともに泊山寺は衰退していった。永久年間(1113~18)に泊山寺を来訪したのが行尊〔ぎょうそん〕である。行尊は今日にまで伝わっている十一面観世音菩薩を安置し、中興の祖となった。このときから、寺の名称も笹井観音堂となった。そしてその約360年後に、道興が観音堂を訪れることになる。
なお、笹井観音堂については、篠井家に伝わる「篠井家文書」によって、その支配地域等が確認できる。『狭山市史』はもちろんのこと、『日高市史』、『所沢市史』、『入間市史』などの記述も「篠井家文書」を根拠にして展開されている。
本稿に関係する時代の「篠井家文書」は、『狭山市史 中世資料編』、p.3~p.15の他、入間市編さん室編『入間市史 中世史料・金石文編』、入間市、1983年、p.20~p.28、日高市史編集委員会 日高市教育委員会編『日高市史 中世資料編』、埼玉県日高市、1995年、p.330~p.332などに掲載されている。
また、添野彬裕氏のHP(https://note.com/good_pansy492)に掲載されている、添野彬裕「所蔵史料から見る修験寺院の運営と霞支配」(2022年)も、「篠井家文書」に基づいて、笹井観音堂の霞支配について論じている。
なお、高橋一「武蔵国熊野里修験笹井観音堂(二)」、埼玉県郷土文化会『埼玉史談』第60巻第3号 通巻第315号、2013年、p.35には、次のような記述がある。
笹井観音堂は、入間川の流域に本拠を構えた川筋の修験、すなわち川修験である。
武蔵国における熊野信仰を伝播する川修験の、十玉坊(十玉院)は、柳瀬川流域に拠点を転々と変えていったのに対し、笹井観音堂は入間川流域に本拠を確立していた。
(注3)宮家準『修験道 その歴史と修行』p.3
(注4)『修験の世界―笹井観音堂とその配下―』p.4
(注5)『修験の世界―笹井観音堂とその配下―』p.4
(注6)『修験の世界―笹井観音堂とその配下―』p.5
なお、准后〔じゅごう〕とは、太皇太后・太皇后・皇后に准じる地位のことである。
(注7)道興の笹井観音堂への滞在については、『廻国雑記』に以下のように記述されている(『埼玉県史 資料編8 中世4 記録2』p.718)。
佐西(高麗郡)の觀音寺といへる山伏の坊にいたりて四五日遊覽し侍る間に、瓦礫とも詠し侍る中に、
南歸北去一季闌 露宿風飡總不安
贏得行唫乘詩景 千峯萬壑雪團々
くろす(黒須)川といへる川に人の鵜つかひ侍るを見て、
岩がねにうつろふ水のくろす(黒須)川うのゐる影や名に流けん
故郷のことなと思ひ出侍りて、暁まて月にむかひて、
吾鄕萬里隔音容 一別同遊夢不逢
客裡斷膓何時是 西山月落嘵樓鐘
さゝい(佐西)をたちて、武州大塚の十玉(十玉坊)か所へまかりけるに、江山いくたひかうつりかハり侍りけん
(注8)『狭山市史 通史編Ⅰ』p.364
(注9)『狭山市史 通史編Ⅰ』p.364
なお、『狭山市史 地誌編』p.209によると、年行事職とは「聖護院配下の寺の事務をまとめる役のことで、いわば寺の代官である」。
日高市史編集委員会 日高市教育委員会編『日高市史 通史編』、埼玉県日高市、2000年、p.414には、笹井観音堂が「武州杣保内并高麗郡年行事職」を聖護院門跡から代々下知されたことによって、「修験高麗氏は恐らく、初めは自由に独自の活動を主体としながらも、結衆が進む中にあって本山派に属して、観音堂の触下に入ったのであろう」と記されている。
(注10)『狭山市史 中世資料編』p.343
(注11)入間市史編さん室編『入間市史 通史編』、入間市、1994年、p.331
(注12)『入間市史 通史編』p.331
(注13)青梅市については、青梅市史編さん委員会編『青梅市史 下巻』、東京都青梅市、1995年、p.766に以下のような記述がある。時代的には江戸時代中期の資料になるが、参考のために掲載しておく。
(前略)現在埼玉県狭山市にある笹井の観音堂はこの地方に大きな布教網をもつ当山派〔ママ〕の修験寺であり、塩船の杉本坊もこの一例である。これに属する法印が本市の周辺に在住していた。
市内小曾木・岩蔵吉野家文書に、
武州多摩郡南小曾木村金峯山蔵王院代数の儀は、法流、血脉ニ、相見申候。然ルニ故有テ皇五拾九代宇多天皇御字、寛平元己酉〔つちのととり〕年、開山智永一字を造営し、金峯山蔵王院と号し、嫡々相続当現住快賢迄二十三世及修験導法流、血脈相続仕候。依之世代左之通御座候。
(系譜中略)
武州高麗郡笹井村観音堂霞〔かすみ〕
同国多摩郡南小曾木村
金峯山蔵王院
天明七丁未〔ひのとひつじ〕年三月 快賢
とあるのは、岩蔵の蔵王院(現・御岳神社)が笹井観音堂の配下にあり、吉野家はすなわち修験道の法印であったことを物語っている。
右の記録中「観音堂霞」とある霞の文字は信徒層の範囲を意味する修験道の専用語で、末寺のことを霞下〔かすみした〕ともいい、べつに壇那場〔だんなば〕などとも称した。
筆者注)当山派は本山派の誤りである。
(注14)所沢市史編さん委員会編『所沢市史 上』、所沢市、1991年、p.474
(注15)『狭山市史 地誌編』p.629には、次のような記述がある。
(前略)観音堂が所蔵する天正十六年(一五八八)の北条氏照判物によると、修験の武力を頼りにしていたことがうかがえる。その内容は、もし北条氏の下知に従わない山伏がいたら、聖護院に申し付けて死罪にするというものであり、いったん下知があれば、配下の者は先達である観音堂に集まるようにとも記されている。観音堂は六〇か寺を支配していたというから、その武力は強大であったといえよう。
なお、後北条氏による聖護院の下知の追認と、笹井観音堂が現在の所沢市域の修験道を支配していたことについては、『所沢市史 上』p.474に次のような記述がある。
戦国時代に入ると、檀那の支配権は、聖護院の安堵状だけでは守り切れなくなり、戦国大名が追認するようになる。北条氏照は、天正七年(一五七九)二月、十玉坊の再興を認めた(武州文書)。ただしその同じ年の八月、篠井観音堂は「所沢衆分」と「三日嶋郷衆分、同山口郷宝智坊」の支配権を聖護院門跡から与えられており(篠井文書)、翌年、氏照がそれを追認している(同文書)。また天正十二年、篠井観音堂は「宮寺」の支配を玉林坊(浦和市中尾)と争って勝っている(同文書)。したがって戦国時代末期、所沢市域の本山派修験は、篠井観音堂の支配下にあったことがわかる。
また、大護八郎『市制六十周年記念 川越の歴史』、川越市、1982年、p.146~p.147には、次のように記述がある
天正に入ってから、後北条氏の戦いに対する準備が急にはげしくなってきますが、それには上杉謙信に対することよりも、織田信長に対する備えの必要が強くなったためと思われます。その一つに、予備兵力ともいうべき修験山伏への積極的な動きが見てとれます。
天正七年(一五七九)には、北条氏照の名において、富士見市水子にありました、かつて道興准后がおとずれた十玉坊という、入東郡(入間郡東部)と、新倉郡(新座郡)の配下の山伏を統制してきたのが絶えていたのを復興し、あらたに多摩郡芝山(現清瀬市)に再興させ、氏照の領分であった両郡の年行事職を、本山であります京都の聖護院とそうだんして、あらたにさだめました。
続いて同じ年に、狭山市笹井の、古くからさかえてきました同じ聖護院配下の笹井観音堂に、高麗郡の年行事職を前々どおりみとめました。このことは10年後の、いよいよ信長に代わって天下にのぞんだ豊臣秀吉との決戦がさけられなくなった天正十六年に、氏照の名をもって軍役につくことを命じましたことに明らかです。それを記した狭山市笹井の篠井家文書は、吉浄坊・毎楽寺・逸満寺の山伏が、笹井の観音堂ならびに越生の杉本坊の年行事の配下あるところから、いざという時には、それぞれの観音堂ならびに杉本坊のもとに集まり、小田原の命令どおりに働くように、年行事の命令にしたがわない山伏は死罪におこなうといったきつい達しを、氏照の名において正月八日に観音堂・杉本坊あてに出したものです。
(注16)『修験の世界―笹井観音堂とその配下―』p.8
なお、『国史大辞典 第八巻』、1987年、p.457~p.458によると、先達〔せんだつ〕とは、「本来は技芸や学問の先覚者、指導者をさす語」であったが、修験道では熊野三山へ信者を導く宗教者をさすようになった。そして、室町時代や戦国時代になると、「京都や地方都市に居住した先達が現地の輩下の先達に実務を担当させて一定の上分を得るようになっていった。鎌倉時代末期以降熊野三山検校を門跡の重代職とした京都の聖護院は室町時代に入るとこうした有力先達を掌握して、それを通して熊野系山伏に先達の補任状を与えて配下におさめ、本山派と呼ばれる修験教団を成立させた」のである。
(注17)なお、『狭山市史 通史編Ⅰ』p.368~p.369には、次のような記述がある。
宝泉寺は野々宮神社の別当寺で、不動明王が本尊である(『狭山市の社寺誌』九四頁)。同寺が笹井観音堂の配下だったことは、野々宮神社宮司の宮崎家で所蔵する印可状の裏書に、「霞下〔かすみした〕たるにより裏書加えせしむるもの也、観音堂」とあることから明らかである(『地誌』四八三頁)。
(中略)
ところで、ここに「霞下」という言葉が出てきたが、これは配下という意味である。「霞」は一般平山伏(末派修験者)またはその在り場所を指す言葉のように思われるというが、(『中世』三七六頁)、笹井観音堂五九世にあたる篠井良顕が埼玉県教育委員会にあてた「県指定文化財指定申請書」によると、「霞」とは国・郡の同行を本山から賜ることをいうとある。それに「霞」の字があてられたのは、配下の衆徒が浄衣を着て山に登る姿が、さも「霞たなびく」に似ているためと記している(『同前』三五八頁)。
(注18)「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三編『角川日本地名大辞典 11埼玉県』、角川書店、1980年および『角川日本地名大辞典 13東京都』、1978年
6 「霞ヶ関」考
上広瀬村と柏原村の境界付近に「霞ヶ関」という関所はあったのか。あったとすれば、どこにあったのか。この問いに対する答えを用意することはできない。『狭山市史 地誌編』にもあるように、「霞ケ関については、それ以後も旅行記や歌にたくさん出てくるが、その真相に迫るものは一つもない」(注1)。つまり、『新編武蔵風土記稿』以外に資料も遺跡も残っていないのである。将来、上広瀬村と柏原村の境界付近で遺跡が発見されるか、証拠となるような文書が見つからない限り、現在の狭山市域に「霞ヶ関」という関所が存在していたことを証明することは難しい。「霞ヶ関」があったことを願う立場からすれば、「その日が来ないことには、『徒らに名をのみとめて』という歌のとおりになりかねない」(注2)のである。
ここから先は、筆者による考察である。今までの先行研究をもとに「霞ヶ関」という地名の由来について、考えてみたい。
「霞ヶ関」という関所は存在したのか
『廻国雑記』に登場する「霞の関」は、通説のとおりに狭山市ではなく、多摩市関戸にあったと考えるのが自然である。狭山市域に「霞ヶ関」があったとすれば、『廻国雑記』の「霞の関」とはまったく別の関所だと考えるべきである。
それでは、狭山市域に「霞ヶ関」はあったのか。これについては、あったとも、なかったとも結論は出ない。ただし、いくつか推定できることはある。それは、少なくとも大規模な軍事的関所はなかったのではないか、ということである。
もし「霞ヶ関」という軍事的関所があったならば、その目的は鎌倉の防衛であったはずだ。敵は北から攻めてくる。その場合、最大の防御ラインは入間川である。ところが、「霞ヶ関」は入間川の北側であり、ここを突破されると台地から攻めてくる敵に対して不利な低地での戦いを強いられ、かつ後方には入間川という「背水の陣」になってしまう。「霞ヶ関」のあたりを「天然の要害」(注3)と認識している文献も少なくないが、北から攻めてくる敵に対しては、必ずしもそうとは言えない。鎌倉公方だった足利基氏(1340~1367)が南朝の勢力に対抗するため、9年間にわたって鎌倉府を移したのは、入間川の南に位置する入間川村(現・狭山市)であったと考えられている(そのため、基氏は「入間川殿」と呼ばれた)(注4)。やはり、軍事的関所を置くのであれば、入間川の南側に設置すべきである。その点、多摩市関戸は多摩川の南側に位置しているため、軍事的関所を置くのに適している。
また、「霞ヶ関」があったとされる信濃坂の坂上は工業団地と住宅地になっており、坂下の小字「霞ヶ関」も住宅街になっている。開発がすすんでいるため、大規模な遺構があったならば、すでに発見されている可能性が高い。しかし、そのような遺跡の発見は報告されていない。これらのことから、規模の大きな軍事的関所はなかったと考えられる。
なお、経済的関所があったかどうかについては、狭山市域には何の文書も残されていないので、それについて考察を加えることはできない。狭山市域は残された古文書が少ないと言われるが(注5)、何ひとつ文書がないということは、やはり、経済的関所があった可能性も低いと言わざるを得ない。
「霞ヶ関」とは何だったのか
では「霞ヶ関」とは何だったのか、という疑問に対して深い考察をしているのは、『狭山市史 中世資料編』に掲載されている「解説二 霞ケ関について」である(注6)。この解説では、「霞ヶ関」という関所はなかったことを前提にして、次のような推論が展開されている。
(前略)狭山市の中世において笹井の観音堂が占める地位は極めて大きいといわざるを得ない。『新編武蔵風土記稿』に霞郷とあるのは関所の名から起こったものではなく、観音堂の支配地区が大きかったこと、触れ下が強力であったことから呼ばれたものということができよう。入間川流域の強力な修験道の中心であった観音堂の勢力範囲が、霞郷であったのではないだろうか。
(中略)
ここで従来の霞たなびく気象関係の形容詞と修験でいう霞を考えてみたい。霞ケ関という関所は現実には存在していなかったのではないか。霞ケ関とは東国に対する枕言葉であり、南は多摩市付近、北は入間川付近から中央の武蔵野の広大な地域を指したものであろう。するとここに一つの疑問が出てくる。それは多摩市には関戸に関所が置かれ、町田市にも小山田に関があった。多摩市と狭山市は地形的にみると同じような形状をしており、関所を設置するにふさわしい場所であった。現に多摩市では発掘調査を行った結果、その遺跡の存在が明らかになっている。ところが狭山市の場合は霞ケ関という名称のみ存在して、実体がどのようなものであるか、関所に関する文献は一切ないのである。したがって、こうした状況にもかかわらず関といったからには、何らかの関所的状態に置かれていたと考えざるを得ない。
霞という字がつけられた地域はさきにも触れたように、狭山市から青梅市に至るまで極めて多い。これを修験道の勢力範囲とみれば、霞と霞下であったということができよう。その場合、特に霞ケ関という関所が存在したような印象を受けるのは、入間川と武蔵野原野との地理的条件が大きいと思わねばならない。
修験道の寺院を中心とした地域が霞と呼ばれたとき、その地域は修験道の聖地であり、そこには私的な自衛のための治安機関が存在したであろう。治安機関とまで強力でなくともその地域を通過する旅人は、地域に入ったその瞬間から常に監視されていたに違いない。後北条氏時代の観音堂のあり方を見るとそれが首肯できよう。
関所と考えた場合、それだけではない。入間川の川瀬の堰も、十分に関所の関と同じように考慮してよいであろう。古代の交通路は中世に入って幾つかに分かれ、そのうち主要幹線としての鎌倉街道のみが名高くなっているが、古代においては窯跡の存在などからみると、入間川の堰は霞に通じる堰であったということもできる。
このように考えてくると、霞ケ関と従来いわれていた地区は古くは霞という修験者の地区における私的な関所であり、また、霞の中心である寺院に対する堰であったとみなすことができよう。
つまり、公的な関所はなかったが、笹井観音堂を中心とした修験道の勢力が、私的な治安機関を所持していた可能性があり、それが「霞ヶ関」だったのではないか、という仮説が提示されている。
もう一つ、興味深い指摘がある。『修験の世界―笹井観音堂とその配下―』は、狭山市立博物館が2002(平成14)年に企画展を行ったときのパンフレットである。『修験の世界―笹井観音堂とその配下―』では、「霞ヶ関」という地名の由来を次のように推測している(注7)。
(前略)文政年間(1818~1830)ごろ柏原に妙法山常楽寺という天台宗羽黒行人派の寺院が建立されました。この寺は、柏原村の名主を勤めたことがある増田家累代の供養のために建立されたものですが、羽黒派では、羽黒山が天台宗に、湯殿山四ヵ寺(別当大日坊、注蓮寺、本道寺、大日寺)が真言宗に属していたことから、おそらく観音堂では、修験三派の競合関係から一線を画していたと考えられます。柏原村と上広瀬村の境界あたりに、霞が関という地名が残っていますが、この地名も本山派である観音堂の「霞」と、羽黒行人派の「旦那場」という支配領域の境界を示しているのかもしれません。
柏原村と上広瀬村の境界付近では、修験道の宗派が異なるため、その本山派側の境界が「霞ヶ関」であったという仮説である。
妙法山常楽寺の建立以前から、柏原村の修験道は本山派のほかに、羽黒行人派も一定の勢力をもっていたと考えられている。「狭山における修験の存在では、室町時代中ごろから笹井観音堂を筆頭にした本山派と、加佐志〔かさし〕羽黒神社の存在から羽黒派が定着してい」たのである(注8)。
柏原村と上広瀬村の境界付近の修験道は、鎌倉街道(奥州道)を境に、東側(柏原村)が羽黒行人派、西側(上広瀬村)が本山派であった。本山派の境界が「霞ヶ関」であったとすれば、小字「霞ヶ関」が柏原村側ではなく上広瀬村側にあることも説明できる。「関」という字には、関所という意味のほかに、「隔て」、「仕切り」という意味もある。本山派の「霞」と羽黒行人派の「旦那場」の「隔て」、「仕切り」が「霞ヶ関」であったとも考えられるのである。
「霞ヶ関」伝説の成立
信濃坂の坂上に関所があったという伝承があり、坂下には小字「霞ヶ関」が存在する。関所については『狭山市史 中世資料編』の仮説、小字については『修験の世界―笹井観音堂とその配下―』の仮説を紹介した。これらの仮説が正しいという確証はないが、上広瀬村と柏原村の境界付近には関所に類する何かがあったのであろう。そして、その「何か」は、修験道が関係している地域にあったがゆえに「霞ヶ関」と呼ばれるようになった。
ここで確認しておきたいことがある。『新編武蔵風土記稿』で「古人の和歌二首」として紹介されていた和歌は、『新拾遺和歌集』に載せられた「徒つらに名をのみとめてあつまちの、霞の關も春そくれゆく」と、能楽「東北」に関連する「春たつや霞か關をけさ越えて、さても出けん武蔵野のはら」であった。もし、「霞ヶ関」に関所があり、名所・歌枕だったという伝承が『廻国雑記』の影響を強く受けていたとすれば、残された和歌は道興が「霞の関」で詠んだ、「吾妻路の霞の關にとこしえハ我も都に立そかへらん」と「都にといそく我をハよもとめし霞の關も春を待らむ」になったはずである。このことから、「霞ヶ関」の伝承は『廻国雑記』とは無関係に成立したと考えてよいと思われる。『廻国雑記』の版本が出されたのは、1701(元禄14)年のことである(注9)。したがって、少なくともそれ以前に「霞ヶ関」の伝承は地域に定着していたと考えてよいだろう。
ただ、『廻国雑記』の記述が「霞ヶ関」の伝承を補強した可能性はある。「霞の関」という「霞ヶ関」によく似た名称が登場し、「佐西観音堂」をはじめとする近隣地域の地名が次々と出てくる『廻国雑記』の存在を知ったとき、これこそが「霞ヶ関」に関所が実在したことを裏づける証拠だと考えた人々もいたことだろう。
「霞ヶ関」=名所・歌枕という「伝説」が『新編武蔵風土記稿』に掲載されたのは、江戸時代後期のことである。その後、人々の間では『新編武蔵風土記稿』に「其處も今は定かならず」と書かれていた関所跡の探索が始まり、現在の奥州道交差点の西側の地域がその比定地になったのではあるまいか。それが「関跡」、「関守ノ跡」、「關守の跡」として、『武蔵國郡村誌』、「地誌編輯」および『入間郡誌』に記述されたと考えられる。
地元の人々の間では、京都の貴族たちに詠まれてきた名所・歌枕が自分たちの地域にあるということは、たいへん誇らしいことであったろう。そのため、明治の町村合併のときに「霞ヶ関村」という名称が採用されたのだと考えられるのである。
(注1)『狭山市史 地誌編』p.162
(注2)『狭山市史 地誌編』p.654
(注3)『狭山市史 地誌編』p.655
(注4)基氏は足利尊氏の四男である。父から初代鎌倉公方に任じられ、関東の南朝勢力と対峙することになった。特に、新田氏に対抗するために、9年間にわたって入間川に対陣したが、その居館である入間川御所がどこにあったのかはわかっていない。もっとも有力なのは、入間川村の徳林寺説である。
『狭山市史 通史編Ⅰ』p.263~p.264には、入間川御所があった場所の条件として、次のような記述がある。
基氏の使命が新田氏の動きを封殺することにあるならば、鎌倉防衛の第一拠点である入間川の地は最適の場所といえる。仮にこの地を柏原にあてると、基氏は背水の陣を敷くことになり、その滞在目的にそぐわないといえよう。背水の陣は、緊急やむを得ない場合に限り取ると考えるのがふつうである。
(中略)
河岸段丘上に位置する入間川宿は北方の眺望に優れ、上野国を拠点とする新田氏を牽制するには、極めて都合のよい場所なのであった。
なお、川越市庶務課市史編纂室『川越市史第二巻中世編』、川越市、1985年、p.270~p.271には、かつて渡辺世祐が入間川御陣は柏原村に置かれていたと説いていたことが記されている(渡辺世祐「関東中心足利時代之研究」、1926年)。一方、安部立郎の『入間郡誌』では、入間川御陣は対岸の入間川町の徳林寺に比定している(p.271~p.272)。
(注5)『狭山市史 中世史料編』p.3には、次のような記述がある。
狭山市内に中世の古文書は少ない。その理由は幾つか考えられるが、中世において戦乱の場であったため古文書が残らなかったのも一つの原因であるし、また『狭山の文化財』(第二集・一九七四年・狭山市教育委員会)に故小谷野儀平氏が説かれているように、狭山市は昔から製茶が盛んであったため、製茶用のほいろの上に貼る和紙の替わりに古文書が大量に使用されたとするのもその一つであり、さらには花火の製造上欠かせない和紙として古文書が使用されたこともあったろうし、また最近の宅地化と農家の建て替えによって散逸したのも原因の一つとして挙げられる。
(注6)『狭山市史 中世資料編』p.358~p.359
(注7)『修験の世界―笹井観音堂とその配下―』p.7
(注8)『修験の世界―笹井観音堂とその配下―』p.7
なお、『青梅市史 下巻』p.767には、青梅市域の修験道について、「近世以降、本地方に流布した修験道として、山形県の出羽三山が古来この宗派の霊場として繁栄し、東北地方はもとより関東にまで布教され、広範囲の壇那場を所有していた」と記述されている。狭山市域についても、羽黒行人派が勢力を強めたのは、中世よりも近世に入ってからだったと思われる。
(注9)日本古典文学大辞典編集委員会編『日本古典文学大辞典 第一巻』、岩波書店、1983年、p.550には「【諸本】内閣文庫等に写本があり、元禄十四年(1701)版本がある」と記されている。
なお、この「元禄十四年版本」は『宗祇廻国雑記』という書名で出されたものと思われる。『廻国雑記』には、連歌師の宗祇〔そうぎ〕(1421~1502)を著者とするテキストも存在したのである。だが、1825(文政8)年に関岡野洲良〔せきおか やすら〕によって著された『廻国雑記』の注釈書、『廻国雑記評註』によって、『廻国雑記』の著者は宗祇ではなく、道興であることが明らかになった。それ以前に出された塙保己一の『群書類従』でも、『廻国雑記』の著者は道興とされている。『群書類従』が世に出たのは、1793(寛政5)年~1819(文政2)年のことである。
おわりに
なぜ川越市に「霞ヶ関」という地名が生まれたのか。この疑問に関する先行研究を紹介するとともに、それらの研究成果を踏まえて、「霞ヶ関」という地名について考察することが、本稿の目的である。
本稿が主に依拠しているのは、『狭山市史』における一連の研究である。『狭山市史』では、笹井観音堂による修験道の影響と「霞」という概念が強調されている。本稿も、その考え方の上に立って考察を行っている。
なお、本稿には「霞ヶ関」と「霞ケ関」という2種類の表記が登場する。もともとは「霞ヶ関」が古くからの用法である。小さな「ヶ」は連体助詞であり、カタカナを小文字にしたものではない。本来の地名は「霞ヶ関」であるため、基本的には、そちらを使用している。ただし、現在の行政では「霞ケ関」が使用されることが多い。引用などでは、原本で使用されているものをそのまま使っている。ちなみに東京都千代田区の地名は、現在は「霞が関」と表記する。
ところで、明治の町村合併では、笠幡村、的場村、安比奈新田の三か村の合併によって霞ヶ関村が誕生する。このとき、「なお新村名は古い庄号に基づき、霞ケ関村と称し、役場位置を笠幡に置いた」(注1)という。ここで疑問に残るのは、柏原村が離脱したにもかかわらず、なぜ新村の名称はそのまま狭山市域の地名を採用して「霞ケ関村」となったのか、ということである。いろいろな文献にあたってみたが、そのことに触れたものは見つかっていない(注2)。
また柏原村は、離脱をした場合には根岸村連合(上広瀬村、下広瀬村、根岸村、笹井村)との合併を希望した(注3)。
第一條 根岸村聯合卜合併致シ度然カスルトキハ地盤上ノ形象モ宜シク殊二各村落ノ中間ニ山林モ介セス僅二耕地アルノミニシテ殆ント人家二接スルト云フモ不可ナシ且水利堤防上好都合ナルハ不俟言シテ明瞭セリ而テ其村名ハ霞村卜致度候
しかし、上広瀬村、下広瀬村、根岸村、笹井村との合併については、「柏原村のこの主張は、根岸・笹井両村の反対にあって挫折した」(注4)ために実現しなかった。だが、ここで注目しておきたいのは、柏原村は、上広瀬村、下広瀬村、根岸村、笹井村と合併する場合には、新村の名称は「霞村」としたいとしていたことである。「霞郷」の名称の復活を企図していたとも考えられる。
川越市に「霞ヶ関」という地名が生まれた経緯については、残された資料が少ないこともあり、十分に解明されたとは言い難い。だが、「霞ヶ関」の地名の由来についての先行研究を紹介するという、本稿の目的のひとつは達成できたのではないかと思う。
2023(令和5)年 春
(注1)川越市総務部市史編纂室編『川越市合併史稿』、川越市、1966年、p.117
(注2)韮塚一三郎『埼玉県地名誌―名義の研究-』、北辰図書、1969年、p.135~p.136には、以下のように記されている。
(旧)霞ケ関村(かすみがせき)
明治二十二年高麗郡下の笠幡、的場の二村と安比奈新田とを合併して新たに霞ケ関村を設置した。新村名は歌名所として名高い霞ケ関の名にちなんだものである。
霞ケ関(かすみがせき)
霞ケ関村は歌名所として名高い霞ケ関にちなんでいるが、霞ケ関を詠んだ歌としては「新拾遺集」に
いたずらに名をのみとめて東路の
霞の関も春ぞくれぬる
とあるのをもって初見とする。しかし霞の関がどこであるか明らかでなかったが「藻塩草」に「霞関武蔵」と記してあることから、江戸の学者はそれぞれの説をたて、「紫の一本」「江戸砂子」「江戸名所図会」は江戸桜田門の南、今の外務省のあるところであるとし、「求涼雑記」は四谷大木戸の地をあてている。しかるに当時の川越藩士は旧高麗郡的場(川越市的場)に霞の関があったとし、また入間川宿の人は柏原村(狭山市)にあったといって、いずれも自分の住む土地の付近に霞の関をひきつけているのである。
本村が霞の関の名を称したのも、これら江戸時代からの説によったことは明らかである。
さて、しからば霞の関の真趾はどこにあてるべきであろうか。現在の研究では南多摩郡関戸の関であるということに多くの一致をみているようである。(「武蔵野歴史地理」「武蔵野とその文学)
また、埼玉県地方課編『埼玉県市町村合併史』、埼玉県自治研究会(埼玉県地方課内)、1962年、p.12~p.13には、次のように記されている。
新村名はこの地方に歴史的に著名な霞郷の名をとつて霞ケ関村と命名された。
(注3)『川越市合併史稿』p.117
(注4)狭山市編『狭山市史 通史編Ⅱ』、狭山市、1995年、p.80
霞ヶ関郷土会編『霞ヶ関の歴史』、1962年、p.4
〇霞ヶ関趾
春立つや霞ヶ関を今朝越えて
さても出でけん武蔵野の原
いたずらに名をのみとめて東路の
霞の関も春ぞくれゆく
今柏原から水富の奥州道をいくと両地区の境する所に霞ヶ関趾がある。そばに大きな榎があり、東に鎌倉街道が通つている。
柏原にある黒米屋、白黒屋〔ママ〕の先祖はこの関所に近く旅屋(旅館)をしていたと伝えている。
霞ヶ関村の名は明治廿二年四月にこの関所の名からとつたという。
この関趾の前の田圃は今も狭山市字霞ヶ関とよんでいる。
―新編武蔵風土記稿より次に掲げる―
〇柏原村の一節
西の方上広瀬村界に大路一条かゝれり、往古越後、信濃より鎌倉への往還にて、今は信濃街道と唱ふ、坂上に古へ関のありけるよし、其処も今は定かならず、古人の和歌二首、土人口碑に伝ふるもの左にのす、
春たつや・・・・・・
いたづらに・・・・・・ 前掲す、
霞ケ関郷土史研究会編『霞ケ関の歴史 第二集』、1970年、p.64
霞ケ関の由緒
当地の名は明治廿二年四月この関所の名からとったと云い、この関跡の前の田圃は今も狭山市小字名 霞ケ関と記。
新編武蔵風土記記稿〔ママ〕より次に掲ぐ
柏原村の節
西の方 上広瀬村界に大路かゝれり、往古は越後より鎌倉への往還にて今は信濃街道と唱ふ坂上に古へ関のありけるよし今は定かならず。
古人の和歌二首
春立つや 霞ケ関を今朝越えて
さても出でけん 武蔵野のはら
いたづらに 名ものみしめて〔ママ〕 あづまちの
霞ケ関も 春ぞくれゆく
正慶年中鎌倉攻めの時、新田義貞上州より打出て、この道にかゝり入間川にて左右大夫入道恵勝と対陣して終りに府中へかゝりて鎌倉へ攻入れしと云。
霞ケ関郷土史研究会編『霞ケ関の史誌』、1990年
(p.28)
写真「霞ケ関関所跡(後の森)」
(p.34~p.37)
明治五年(一八七二)四月、前年の四月に公布された「戸籍法」との関連で、大区小区制が採用されることになった。入間郡は十一大区九四小区に編成され、霞ケ関地区は第四大区第二小区に所属され、柏原、安比奈新田、的場、笠幡の四ヵ村が属した。江戸期の名称である名主、組頭、百姓代が廃止されて、戸長、副戸長を称するようになった。明治十七年(一八八四)地方制度の改正があり、連合戸長役場制がとられるようになった。五百戸五町村を目指して連合させたもので、明治六年(一八七三)の小学校設置の際の組合慣行、同十四年の学区組合ならびに水利、地勢、部落的旧慣などを考慮し、旧来からの部落感情や生活上の結びつきの強い町村を組み合わせるというものであった。霞ケ関地区の諸村は表3のように編成されている。
連合戸長役場は笠幡村の発智氏宅におかれた。連合戸長役場制は実施してみると、いくつかの問題が 生じた。役場は当然のことながら政府の末端の行政機関として組織性を持つことを要求されるから、事 務内容も種類や量が増加しその経費が年々多額になってきた。したがって独立した運営ができない町村 は、合併して自治能力を強化する必要がでてきたのである。政府は明治二十年(一八八七)三月「町村郡市区画案」を作成して各府県知事に内覧して町村合併にとりかかった。埼玉県では明治二十一年七月県令第三四六号で町村合併標準を作成して、各郡長に編成を具申させた。編成の基本方針は原則として現在の戸長役場区域内の町村を合併させ、一町村三百ないし五百戸を標準とした。入間高麗郡長伊藤栄は、明治二十一年(一八八八)十月連合戸長、町村議員も総代人などの意見を聴取したうえ、町村編成案をまとめて県知事に上申した。
三ケ村合併で霞ケ関村
霞ケ関地区では入間高麗郡長伊藤栄の最初の案は、明治十七年(一八八四)の笠幡村連合戸長役場の 管轄区域である笠幡、的場、安比奈新田、柏原の四ヵ村の合併であった。その理由は「各独立二耐ユへキ戸口及資力ナシ、且地形民情二於テ故障ナシ」ということにあった。関係村に対する郡長の諮問が行われると、笠幡、的場、安比奈新田の三ヵ村は、郡長案に同意する旨を回答したが、柏原村の場合は、下にかかげるような答申書を出して、笠幡村連合を脱することを希望した。 答申書
高麗郡柏原村
今般町村制発令二依リ、笠幡村連合ハ現今ノ侭ヲ以テ一自治区トナスノ利害ヲ御諮詢二候處、柏原村 ノ如キハ笠幡村連合ヲ脱シ度候、其理由左二開陳仕候
柏原村は連合役場から三拾余町(約三・ニキロ)も離れているうえ、しかも山林の間を通らなければ ならないから往復に不便なだけでなく、税金など多額な金円を持って往来するときもあるから、非常に 危険である。その上土地の地価や面積に差違があって、経費の割当てが他の村々と不均等である。以上 が笠幡村連合を離脱する理由である。本村が分離した場合は、次のような意見を取り決めた。
第一条 根岸村連合と合併したい。地盤の形も宣しくことに各村落の中間に山林もなく、わずかに耕地 があるだけでほとんど人家に接しているといってもよい。かつ水利堤防上も好都合なことは言うまでもない。その村名は「霞村」としたい。
第二条 根岸村連合への合併ができないときは、柏原村一村で独立し、村名は柏原村としたい。
第三条 柏原村一村では戸数が少ないというのであれば、柏原村と安比奈新田とで一村とし、村名を柏 原村としたい。
右ノ通相違無之因ヲ以連署段答申仕候也
明治二十一年九月十日
増田彦四郎 外三名
笠幡村連合戸長 西村周太郎殿
以上のような柏原村の主張に対して、笠幡村ほか二村も、柏原村の離脱を認めたので、県、郡当局も柏原村を独立した一村にすることにして、新村は笠幡村、的場村、安比奈新田の三ヵ村で発足することになった(4)〔ママ〕。村名は柏原村(狭山市柏原)にあったとされる「霞ケ関趾」から命名されたものといわれている。
この頃の人口、戸数、などを一覧表にしたのが表3である。
川越市へ合併
昭和三〇年四月霞ケ関村は川越市へ合併して、この村名は消滅した。同二十八年九月一日に公布され た町村合併促進法が、直接の契機になって行われたものである。第二次大戦後の市町村は地方自治行政 の基礎単位として、住民の行政需要と国や県の委任事務を処理しなければならなかったが、かんじんの 財政資金は固定資産税と住民税が主なもので、あとは国から交付金と借入金で財政運用を図らなければ ならなかった。したがって合併することによって規模を大きくして、財政力をつける必要があった。
表3
連合町村名 戸数 人口
〇笠幡村 二一七 一、一八七
的場村 一八八 一、〇四八
安比奈新田 四〇 二四五
柏原村 二八〇 一、六〇一
計 七二五 四、〇八一
※連合郡内東西南北の里程 東西一里南北三〇丁
※当連合ハ戸数ニ於テ多額ノ超過アリト雖他ノ連合ト相隔絶シ分割シテ他ニ附スルノ由ナシヲ以テ合ス
(p.42)霞ケ関村のおこり
新編武蔵国風土記稿〔ママ〕(略称=新記 徳川幕府が林大学頭に命じて文政十一年(一八二八)二十年間で完成)に柏原は、郡の東南入間郡界にあり、霞郷に属す(中略)西の方上広瀬村界に大路一條かかり往古信濃より鎌倉への往還にて今は信濃街道と唱う。ここに霞ケ関と称す名所あり、その南の小坂上に古へ関のありけるよし、そこも今は定かならず、古人の和歌二首土人の口碑に伝うるものを左にしるす
春立つや霞ケ関をけさ越えてさても出でけん武蔵野の原
いたづらに名をのみとめて東路の霞ケ関も春そ暮れ行く
更に同風土記の柏原村の稿に「霞ケ関趾 水富村との境界線に当り、低地より高台に登る坂上にあり、附近に大なる榎あり。村内に存する黒米屋及白米屋の先祖は関に近く旅宿を開業したりしたものと言い伝えらる。」と記してある。従って明治二十二年四月に柏原村は分離して霞ケ関村とした時は村界にあった古関の名をとって霞ケ関としたといわれている。
※筆者注)p.42の記述のうち、後半の「更に同風土記の柏原村の稿に」のところは、『新編武蔵風土記稿』ではなく、『入間郡誌』の内容である。
霞ヶ関村の誕生
私たちは霞ヶ関という美名の場所に住んでいますが、この名前はいつ頃からどのように使われていたのでしょうか。
新編武藏風土記稿によれば、柏原は住吉〔ママ〕信濃から鎌倉への往還にて、今は信濃街道と呼ばれています。
“ここに霞ヶ関と称する名所あリ、その小坂の上に古関所ありける由”
古人の和歌二首口碑に伝わっています。
春立つや霞ヶ関を今朝超えて
さても出けん武蔵野が原〔ママ〕
いたずらに 名をのみとめて 東路の
霞ヶ関も春ぞ暮れ行く
(新編武藏風土記稿)
霞ヶ関の関所跡は柏原の低地より高台に登る坂上にあります。源頼朝が弟義経を捕らえるペく全国に関所を作りました。
この関所は川沿いにあったために、1年中(霞)ガスがかかっていたので、誰いうことなく霞ヶ関と呼ぶようになったそうです。江戸時代より1ヶ村40から60戸位の村々が多く、非常に行政がやリにくかったために明治17年地方制度の改革があり、今まで不統一だった村々を1ヶ村500戸を基準とする制度をつくリました。当時川越地方では約80有余の村々が存在していたそうです。
この地区では、笠幡村、的場村、安比奈村、柏原村の4ヶ村で1村とする方法をとり、 やがて村名を霞ヶ関とすることに決定しました。
その後、明治22年に町村制度が施行された時に柏原地区は地理的条件が悪く不便だと言う理由により、合併から分離したので残る3ヶ村で予定どおり村名を霞ヶ関にしたといいます。
〇「奥州道交差点」の写真についてのキャプション
旧鎌倉道また奥州道の場所の坂上に「関」があった場所として伝えられる。(狭山市柏原)
霞ヶ関の変遷
明治5年(1872) 大区小区制の採用によリ、霞ヶ関地区は、第4大区第2小区に所属され、柏原、安比奈新田、的場、笠幡の4ヶ村が属した
明治12年(1879) 郡区町村制により、高麗郡となる。村名も元に戻る
明治17年(1884) 連合戸長役場制実施。笠幡村連合戸長役場誕生
明治20年(1887) 政府「町村群市区画案」〔ママ〕作成。町村合併の動き。入間高麗郡長伊藤栄は、明治21年(1888)町村編成案をまとめ県知事に上申。
編成案は、連合戸長役場の管轄区域である笠幡、的場、安比奈新田、柏原の4カ村の合併であった
明治22年(1889) 町村制施行。柏原村と分離し的場、笠幡、安比奈新田を霞ヶ関村とする。<霞ヶ関村の誕生>
明治29年(1896) 入間、高麗郡の2郡を合して入間郡となる。
昭和30年(1955) 4月1日川越市と合併。霞ケ関村の名は消滅した。
新井博『川越の歴史散歩(霞ケ関・名細編)』、川越郷土史刊行会、1982年、p.119
村名は柏原村(狭山市柏原)にあったとされる「霞ケ関趾」から命名されたものといわれている。この関所には次のような古歌があるという。
春立つや霞ケ関を今朝越えて
さても出でけん武蔵野の原
いたずらに名をのみとめて東路の
霞ケ関も春ぞくれゆく
『水富村郷土誌』
〇写真「霞ヶ関址附近」
〇(p.86)
三、霞が関
水富村大字上広瀬の柏原に近き地の名称なり。
往古、鎌倉時代に鎌倉より北越に通ずる唯一の道路が、同地を通過せることは、老人の口碑、又は現に鎌倉街道と称する地にあるによりて証せらる。今此の地の地勢を見るに、数十尺の断崖を境として、北は一帯の高台にして、南は数十町歩の水田を隔てゝ、入間川原の際限なき眺めあり。
而も現水田は、昔一帯の河流に当り、八丁の渡しと称する渡場ありしなりといふ。斯く要害の地なりしかば、当時関所を設け置かれたりしなり。今は館は勿論、その所在も不明なれど、只畑地より、古びたる布目瓦の発掘せらるゝを見る。又、台地には、窯跡あり、古墳の跡、住居址の跡あり。
古歌
春立や霞ケ関を今朝越えて
さても出でけん武蔵野の原
徒に名をのみとめて東路の
霞が関も春ぞくれゆく
史跡文化財めぐり(63) 史跡「霞が関」
武蔵風土記稿に柏原村と上広瀬村境に、大路一条かかれリ、往古越後信濃より鎌倉への往還にて、今は信濃街道と唱う。ここに霞か関と祢する名所あり、その南の小坂を信濃坂と唱う坂上に、古へ関のありける・・・・・・・・・土地の人、口碑に伝わる古人の和歌二首を紹介します。
〇春たつや霞か関をけさ越えてさても出けん武蔵野のはら
〇徒つらに名をのみとめてあつまちの霞の関も春そくれゆく
謡本宝生流、宝生重英著、東北(とうぼく)という、うたいがあります。その梗槪に…東国より出でたる僧、洛陽の色香の妙なるに憧れつつ、という書き出しで和泉式部(平安時代の歌人)の植えて愛でし軒端の梅…云々とあり、謡の本文に「是は東国方より出でたる憎にて候。我未だ都を見ず候程に、此春思ひ立ち都に上り候、春立つや霞の関を今朝越えて、霞の関を今朝越えて、果はあリけり武蔵野を分け暮しつつ跡遠き山また山の雲を経て……とあリます。霞の関、武蔵野と言っておリますので、この謡いはまさしく市内柏原と広瀬との地区境、おおじゅうどう=奥州道という坂の上に、関所があったこの霞ガ関を泳じた和歌と、意味が同じであることがわかります。前記古歌に霞が関とよまれているのと霞の関とありますが、たまたま古いことになりますと、このような例はあるようです。市内に関所があったこと、その場所は、おおじゅうどうの坂の上で唯一の史跡であります。何かの機会に関所跡が確然と発掘されることがありましょう。武蔵風土記に、この霞が関付近は霞郷(かすみごう)と称し、篠井村(ささいむら)=後の笹井村、根岸村、上下広瀬村、柏原村、田木村は霞鄉に属すとあります。安比奈新田村より川越附近は三芳野郷と記されております。郷(ごう、がう)とは古代行政区画の一つ律令制の地方行政単位の末端組織で、大化改新によって施行された、国、郡、里制の里が改称されたものと解説されておリ、出雲国風土記に「霊亀元年(七一五)の式に依り里を改めて鄉となすjとみえてあるよし、郷制は永く統き中世にまで農村の単位としておりました。入間川を前にして崖、高台はかなりの森をなしており、霞のたなびく所でもあったので霞が関と付近は霞郷と地域区分の名もつけられたものと思われます。
関所を解説いたしますと、交通上の検察、荷物への課税をおこない、戦時には防備にあてた施設でありました。わが国では大化改新以来しだいに整備され、律令制下では平安京の防備のため関が置かれたと古書にあります。伊勢の鈴鹿の関、美濃の不破の関(ふわのせき)、越後の愛発の関(あらちのせき)、のち近江の逢坂の関(おうさかのせき)の三関が重視されました。鎌倉時代以後、通行税徴収を目的とする関所が多くあらわれた模様であります。これが交通上の障害となったので、豊臣政権はその撤廃につとめ、江戸時代になりますと、江戸城、江戸防衛に主力をおき箱根の関所、今切(いまぎり)の関所など五十余の関所が置かれ、とくに鉄砲と出女の検問がきびしかったのですが、明治二年、関所は全廃されました。
市内に唯一の関所、霞が関はいつ頃のことであったのでしょうか。関所の解説に、関所のあリ方より及び霞郷との関連からして、鎌倉時代以前のこととほぼ推定がつきます。頼朝の婿、木曾義仲の子清水冠者義高が入間川原で殺された記録がありますが、関所はぜんぜん出てこないこと、鎌倉街道は他に堀兼地区にもあり、いざ鎌倉という街道はかなり数多くあったようです。したがって関所はなかったものにて、往古街道の少なかった主要道路のみの時代、平安末期頃から鎌倉時代までと推定がつきます。今回は、史跡霞が関を中心に解説いたしました。
文化財委員 小谷野儀平
筆者注)「史跡文化財めぐり(63) 史跡『霞が関』」は、狭山市立図書館編『史蹟・文化財めぐり』、狭山市立図書館、1989年に収録されている。狭山市立図書館編『史蹟・文化財めぐり』は、『狭山市政だより』および『広報さやま』に連載されていた「史跡文化財めぐり」をまとめたものである。
狭山市編『狭山市史 中世資料編』、狭山市、1982年、p.355~p.360
解説二 霞ケ関について
狭山市柏原と上広瀬の境に昔、霞ケ関という関所があったといわれる地域がある。『新編武蔵風土記稿』によれば、
こゝに霞ケ関と称する名所あり、その南の小坂を信濃坂と唱ふ、坂上に古へ関のありけるよし、其処も今は定かなら ず、古人の和歌二首、土人口碑に伝ふるもの左にのす、
春たつや霞か関をけさ越えて、さても出けん武蔵野のはら
徒つらに名をのみとめてあつまちの、霞の関も春そくれゆく
とある。霞ケ関という関所があったということは、この風土記稿の記事が中心になって今日に伝わってきているように思う。
『角川日本地名大辞典』(11・埼玉県)はこの霞ケ関について、次のように解説している。
室町期に見える地名。高麗郡のうち。文明十八年の「廻国雑記」に「名に聞し霞の関を越えて云々」とあり、二首の和歌が載せられている。この霞ケ関は現在の狭山市大字(ママ)柏原・上広瀬の境を通り、中世は鎌倉から信濃・越後へ抜ける街道 (通称信濃街道)の坂の下にあったものという。「新編武蔵」に見える霞郷はこの関名より起こったといわれる。また霞ケ関を現在の東京都町田市北部に比定する説もある。(ニニ九頁)
霞ケ関という関所があったかどうかについては、これ以外にその存在を記した史料はない。中世における関所は鎌倉時代から南北朝、室町時代から戦国時代と年代が下るにつれて多くの変遷が見られる。その中にあって霞ケ関が一般にいわれる関所であったという確証は一つもない。もし関所があったとしたならどの時代に関所が設けられたのか、また、誰がその管理に任ぜられたのであろうかをできる限り調査したが、わずかに和歌に表れた枕言葉としての霞ケ関しか見い出せなかったのは残念である。
和歌にしか関所のあったことが見い出せないとすれば、霞とは一体何を指すのであろうか。入間川の流域には霞という言葉が使われた地名が多く存する。例えば霞ケ丘(青梅市)・霞川(入間市~狭山市)・霞ケ関(狭山市)などである。しかもこれらは和歌にあるような関東の枕言葉をとって名が付けられたとは考えられない。
中世の関所名に霞ケ関がないとすれば上代にあったとも考えられるが、それを探ることは全く不可能である。そこで霞ケ関と呼ばれる地域は何か所かあるので、狭山市の霞ケ関とともに有名な東京都多摩市の霞ケ関の場合を考えてみたい。
多摩市が市制施行前に発刊した『多摩町誌』によると、霞ケ関について次のように述べている。
ところで、多摩町に作られたこの関所は何とよばれたのであろうか。関戸というのは関が設けられたことより生じた地名で、関所の名称ではない。前述の「曽我報恩謝徳物語」には俵藤太秀郷が霞ケ関と名づけたとあるが、これは疑わしい。しかし、関所が置かれた一帯の小字に霞ノ関として名が残っていることや、古歌にも「いたずらに名のみとどめて吾妻路の、霞の関も春ぞ暮ぬる」(新拾遺集)、「別れ行く春の関守も、すぐる日かずをとめやはする」(新千載集)などと歌われていること、さらに、「師門物語」に「武蔵国霞の関に御着有と、其夜は宿にて夜を明し、天も漸明ければ、涙ながらに起出て、ぶばい河原に着給う」とあり、南葵文庫の「川免久り日記」(東京大学図書館所蔵)にも「川のへたをめぐり行、南の方なる高きところぞむかひの岡ときこめ(中略)そこに関戸むらといふところあり、いにしえの鎌倉路にて霞ケ関よりむさしのをへて矢口の渡をこえてここにいたるなるべし」とあることなどからして、一般には霞ノ関と称されていたことは確実であろう。では、どうして霞ノ関といわれたかについて、菊池山哉氏は、待ちかまえて獲物をとる綱(ママ)をカスミ綱(ママ)といったり、要所要所に築く堤防をカスミ堤防ということや、あるいは、修験道で遠く離れた末寺のことをカスミ寺と称している例をひいて、カスミには縄張り、綱(ママ)をはって何か取らえるもの、ないし、その場所などの意味を含んでいるので、人々は多摩町に置かれた関所が新関であり山間要害の地で、人家もないところにあったために、このようによんだのだろうと推定している。(九〇頁)
『多摩町誌』は以上のように述べているが、文中の綱は網の誤りである。ここでは天候気象という自然現象の霞から、菊池山哉氏のカスミ網あるいはカスミ堤防、または修験道のカスミ寺から力スミについて類推しているが、編者は修験道におけるカスミが「霞」の正しい語源であると考える。
いずれにしろ霞ケ関という名は現在に至るまで有名であり、多摩市にしても狭山市にしても、これまで霞たなびく状況から天候気象上の霞と思いがちになるのはやむを得ないことである。
しかし、天候気象上の霞でないとしたら、霞のもとは何に求めたらよいだろうか。その答えは『多摩町誌』が少し触れているように、修験道の霞でなくてはならない。修験道において修験者の居住地区を霞場と呼んでいたことは、和歌森太郎氏の『修験道史研究』(平凡社・東洋文庫211)に一部叙述されており、また『修験道と民俗』(民俗民芸双書72・戸川安章著・岩崎美術社・一九七五年一月)は、
霞といい且那場といっても、本山派でいうそれと、羽黒派でいうそれとは性質がちがうところからきている。本山派 で霞場というのは、地方に居住する末派修験の且那区域で、末派修験同志が互いに縄張り争いをしないように、本山が授与した、という形をとったものであるが、羽黒のばあいには、山內衆徒にあたえられるもので、末派修験に付与されたものではなかった。(五七頁)
と解説している。
霞といい、旦那場というのも、いずれも修験道における用語から始まったものである。
こう解釈したとき、狭山市の中世において笹井の観音堂が占める地位は極めて大きいといわざるを得ない。『新編武蔵風土記稿』に霞郷とあるのは関所の名から起こったものではなく、観音堂の支配地区が大きかったこと、触れ下が強力であったことから呼ばれたものということができよう。入間川流域の強力な修験道の中心であった観音堂の勢力範囲が、霞郷であったのではないだろうか。
霞については、故篠井良顕氏が昭和三十二年三月に埼玉県教育委員会にあてた「県指定文化財指定申請書」で 次のように述べている。
本山から一国、一郡、あるいは一在所、二在所霞と号した折紙を持って年行事職に補任され、これによって霞下を支配して居った。年行事職はいわば修験の代官である。「霞」とは国、郡の同行を本山から賜わる事をいい、その目録の名目である。即ち配下の衆徒を引いて(ママ)山に登るが故に「霞」という。
故に山を離れて霞というも意議(ママ)なし。浄衣を着て山にたなびき登るが故に霞というと。
とあり、霞はいわゆる霞たなびくという気象の状態を指すものではなく、本山の支配下にあって修験道の勢力範囲及び修験寺院の所在地を霞と呼んだものであることが分かる。
ここで従来の霞たなびく気象関係の形容詞と修験でいう霞を考えてみたい。
霞ケ関という関所は現実には存在していなかったのではないか。霞ケ関とは東国に対する枕言葉であり、南は多摩市付近、北は入間川付近から中央の武蔵野の広大な地域を指したものであろう。するとここに一つの疑問が出てくる。それは多摩市には関戸に関所が置かれ、町田市にも小山田に関があった。多摩市と狭山市は地形的にみると同じような形状をしており、関所を設置するにふさわしい場所であった。現に多摩市では発掘調査を行った結果、その遺跡の存在が明らかになっている。ところが狭山市の場合は霞ケ関という名称のみ存在して、実体がどのようなものであるか、関所に関する文献は一切ないのである。したがって、こうした状況にもかかわらず関といったからには、何らかの関所的状態に置かれていたと考えざるを得ない。
霞という字がつけられた地域はさきにも触れたように、狭山市から青梅市に至るまで極めて多い。これを修験道の勢力範囲とみれば、霞と霞下であったということができよう。その場合、特に霞ケ関という関所が存在したような印象を受けるのは、入間川と武蔵野原野との地理的条件が大きいと思わねばならない。
修験道の寺院を中心とした地域が霞と呼ばれたとき、その地域は修験道の聖地であり、そこには私的な自衛のための治安機関が存在したであろう。治安機関とまで強力でなくともその地域を通過する旅人は、地域に入ったその瞬間から常に監視されていたに違いない。後北条氏時代の観音堂のあり方を見るとそれが首肯できよう。
関所と考えた場合、それだけではない。入間川の川瀬の堰も、十分に関所の関と同じように考慮してよいであろう。古代の交通路は中世に入って幾つかに分かれ、そのうち主要幹線としての鎌倉街道のみが名高くなっているが、古代においては窯跡の存在などからみると、入間川の堰は霞に通じる堰であったということもできる。
このように考えてくると、霞ケ関と従来いわれていた地区は古くは霞という修験者の地区における私的な関所であり、また、霞の中心である寺院に対する堰であったとみなすことができよう。
それではなぜ、狭山市に霞ケ関という関所が存在したというような事態が起こったのであろうか。詳細については不明であるが、枕言葉の「霞たなびく」が武蔵野の関にいつか定着して、室町時代に入ると過去においてあたかも関所が存在したものと誤認されたのではないかということを指摘したい。
南の多摩市には関戸に立派な関所が存在した。しかし 北の狭山市には関所の跡は全く認められていないにもかかわらず、霞ケ関と呼ばれる地域があったという伝説を残している。
では霞ケ関と呼ばれた地域はどこにあったのだろうか。少なくともそれは霞が存在した地点、また川の堰も存在したことなども併せ考えると、狭山市柏原から笹井にかけての地域を呼ぶべきではないだろうかと思考するものである。
狭山市編『狭山市史 地誌編』、狭山市、1989年、p.162~p.165
4 霞ケ関
鎌倉街道上には霞ケ関があったといわれている。その跡ともみられる「霞ケ関」という地名が、上広瀬の俗称奥州道のあたりにある。しかし残念ながら、その確証はない。
霞ケ関の初見は『新拾遺集』にある
いたづらに名をのみとめて東路の
霞の関も春ぞくれぬる
である。この和歌集の成立は正平十九年(一三六四)であるから、関所はそれ以前に設置されたことになる。
霞ケ関については、それ以後も旅行記や歌にたくさん出てくるが、その真相に迫るものは一つもない。しかしながら、その所在については入間川北岸の上広瀬霞ケ関説と、多摩川南岸の東京都多摩市関戸説の二つがある。
(一) 入間川北岸上広瀬説
①『新編武蔵風土記稿』柏原村
西の方、上広瀬村界に大路一条かゝれり。往古越後・信濃より鎌倉への往還にて、今は信濃街道と唱ふ。こゝに霞ケ関と称する名所あり。その南の小坂を信濃坂と唱ふ。坂上に古へ関のありけるよし。其処も今は定かならず。
②『地誌編輯』上広瀬村(明治二十年 — 一八八七)霞ケ関蹟
所在 村ノ北東ニ位ス。柏原村卜界ス。
景致 上ハ山林ニシテ、下ハ一円平坦ノ田ナリ。高サ七丈、東方二突出シテ切通ナリ。
雑項 往古越後・信濃ヨリ鎌倉へノ往還ニテ、関守ノ跡アリ。信濃街道卜云フ。田ノ中二架ス石橋二越後ノ人ノ寄付シタル名アリ。
古歌二
〇春立つや霞ケ関を今〔ママ〕越えて
さても出けん武蔵野の原
〇徒らに名をのみとめて東路の
霞ケ関も春ぞくれ行く
此ノ地ノ字ヲ霞ケ関卜云ヒ、又オージユウ道卜呼ブガ、奥州道ノ訛ナリ。
聖護院門跡道興准后ガ東国遍歴ノ際、佐西観音堂二宿泊ノ砌リノ詠歌二
〇都にといそぐ吾をばよもとめじ
霞ケ関も春を待つらん
③『唐糸草紙』
(前略)上野の国にかくれなき、ときはの宿も打越えて、一の御宮をふしをがみ、二のたまはらに出でしかば、おやのなのみかちゝぶ山、すゑまつ山を打過ぎて、霞ケ関をもわけこして、入間の郡やせの里。(後略)
(二)多摩川南岸関戸説
①『宴曲抄』善光寺修業(鎌倉時代)
(前略)小山田の里にけらし。過来方を隔れば、霞の関といまぞしる。思きや我につれなき人をこひ、かくほど袖をぬらすべしとは。久米川の逢瀬をたどる苦しさ。(後略)
②『江戸名所図絵』
(前略)今関戸と称するところ、則ちこれなり。多摩川の南岸にそひて、古府中より鎌倉への街道なり。
③『廻国雑記』
(前略)半沢といへる所に泊りて発句
〇水なかば沢ベをわくやうす氷
名に聞きし霞の関をこへて、彼是歌よみ、連歌など言捨てけるに
〇吾妻路のかすみの関にとし越えば
われも都にたちぞ帰らん
〇都にといそぐわれをばよも留めじ
霞のせきも春を待つらん
この関を越えすぎて、恋が窪といへる所にて
〇朽ちはてぬ名のみ残れる恋がくぼ
今将た問ふも契ならずや
注 半沢という地名は、霞ケ関の位置を判定する有力な資料であるが、『武蔵野文学』に「南多摩郡図師の小名なり。霞ノ関は関戸の地なり」とある。従って道興准后が通過した霞ケ関は、関戸の地と推定される。
④『大日本地名辞典』
今按、霞ケ関の始末及其位置は、多く古書の所見なし。然れども、『曽我物語』『方角抄』『廻国雑記』に参考すれば、関戸の地なりとするを得ん。『新拾遺集』に「いたづらに名をのみとめて東路の、霞の関も春ぞくれぬる」とあるを初見とすれ ど、古代の一関なるべし。
⑤『多摩市市政概要86』
「霞ノ関南木戸柵跡」昭和三十六年(一九六一)に都の史跡に指定される。鎌倉時代の建暦三年(一ニ一三)、鎌倉街道に設置された関所の、南木戸の柵の跡で、熊野神社境内の参道に平行して十六か所、及び街道の東側に七個の丸柱跡が残っている。この関所は、国や郡の境に置かれた。通行人の調査や、通行税取り立てを目的とした普通の関所と異なり、鎌倉防衛という軍事上の意義が強かったと思われる。
以上述べてきた諸説からは、多摩川南岸の関戸説が有力である。しかし、入間川北岸の上広瀬にある霞ケ関という地名も捨てがたい。鎌倉防衛上、第二の関所としてあったとも考えられるが、なお今後の究明を待たなければならない。
狭山市編『狭山市史 地誌編』、狭山市、1989年、p.654~p.655
二 影隠し地蔵と霞ケ関跡
中世の歴史の残照を止どめているものに、影隠し地蔵と霞ケ関がある。影隠し地蔵は現在柏原の地にあるが、もとは上広瀬にあった。明治二十年(一八八七)の『地誌編輯』によれば、往古は地蔵堂の中に安置された木造の地蔵であり、木曽義仲の嫡子志水(清水)冠者義高が身を隠したのはこの木像であったが、元弘三年(一三三三)に兵火にかかり烏有に帰したので石の地蔵尊を建立した。近世になり、わけがあって正覚院の境内に移ったが、明治七年(一八七四)に霞ケ関に戻したとある。広瀬の住民は若くしてこの世を去った義高にことのほか思いを寄せ、いまなお供養がたえない。
次は霞ケ関跡であるが、『地誌編輯』には鎌倉街道の関守の跡であると記されている。霞ケ関は武蔵野を代表するものであったらしく、多くの歌人がこれを詠んでいる。『新拾遺集』には次の歌が載っている。
春立つや霞ケ関を今朝越えて
さても出けん武蔵野の原
徒らに名をのみとめて東路の
霞ケ関も春ぞくれゆく
また、文明十八年(一四八六)に笹井の観音堂を訪れた道興准后も、次の歌を残している。
都にといそぐ吾をばよもとめじ
霞ヶ関も春を待つらん
吾妻路の霞の関にとし越えば
われも都にたちぞ帰らん
霞ケ関はここに掲げたように、数々の名歌として残っているが、しかしこれらの歌ではその所在が確認できない。霞ケ関に関しては多摩川の関戸(現多摩市)とする説が有力で、これを支持する人も多い。しかし上広瀬の強みは、「霞ケ関」の小字名が現存することであり、将来文書なり遺跡なりの発見があって実証されれば、この論争は決着をみることであろう。その日が来ないことには、「徒らに名をのみとめて」という歌のとおりになりかねない。
いずれにしても柏原との境の道は、往古は入間路であり、中世には鎌倉街道であった。しかも前面には入間川の流れが控えており、天然の要害であった。この地理的特色ゆえに、歴史上の彩りが添えられたのである。
※筆者注)『新拾遺集』(『新拾遺和歌集』)に載っているのは、「春立つや」の歌であり、「徒らに」の歌は載っていない。
多摩市史編集委員会編『多摩市史 通史編 一』、多摩市、1997年、p.610~p.613
関戸と霞の関
前項では、多摩市域を含め多摩川中流域が府中の境界地帯の一部であったことを確認したが、多摩市内 にはもう一つそれを示す施設が存在した。それは、多摩市関戸の小字霞の関にあったと考えられている「霞の関」である。
この霞の関が多摩市内の関戸と関連づけて現れる初見資料は、『曽我物語』巻第五の建久四年(一一九三)三月下旬に源頼朝一行が上野・下野の狩倉を見るために鎌倉を出発し関戸に宿泊するくだりである (資一―597)。そこには、平将門が関戸に関を立て、藤原秀郷が霞の関と名付けたと記されている。また、霞の関は数々の歌人等により歌枕として和歌に詠みこまれている(資一―六六六頁)。この中には、慈円•藤原定家•藤原道家など東国には行ったことが無い様な人々の作品が多い。この様な人々にも東路の霞の関が知れわたっていたのは何故であろうか。この問題の手掛かりになるのが都鄙(とひ)間交通の問題である。地方の情を京都にもたらす一つの手段として、国司の離着任にともなう人の移動がある。任国に赴任しでいた国司が、京都に帰り歌会などの場で任国の名所などを和歌に詠んだものが歌枕として定着したとは考えられないだろうか。
国司が受領として任国に下向していた平安中期ごろまでは、国境や国内の主要な境界地点などにおいて受領の下向を国衙の官人等が出迎える境迎(さかむかえ)という儀式があった。例えば、因幡国では美作国との国境であった境根で(『時範記』承徳三年二月十四日条)、大宰府では防衛線であった水城で境迎が行われており(『大弐高遠集』)、その場所や儀式の内容は国毎に違いがあったようである。ここからは 推測になるが、相模国から北上して武蔵国に入った武蔵守は霞の関において武蔵国衙の官人等の境迎を受けたのではないだろうか。この様にして、武蔵国に赴任した受領の誰もが、霞の関を武蔵入国のランドマークとして意識していたのであれば、任を終えて帰京した受領等によって霞の関という地名が名所として京都に伝えられたとも考えることができる。また、和歌に詠まれた霞の関は春にかけられており、外官(国司)が春の県召除(あがためしじもく)の後に任国に赴任する季節と合致することも傍証になるのではないだろうか。さらに、境迎や境送などの儀式は、受領ばかりではなく庶民にも広がりを見せており、府中の住民が旅などの際に境迎・境送を行う場所の一つとして関戸の霞の関が認識されていたと考えられる。
鎌倉時代の「霞の関」については、その機能を示す史料はあまり残されていないが、一般に中世の関所の機能は、関銭を徴収する経済的な側面が強調されている。しかし、一部の関所には古代的な軍事的かつ警察的側面が残っていたと考えられ、奥州の白河の関にも武器を携えた関守が駐在した。また、「霞の関」には宿としての機能を持っていた。右にも紹介した『曽我物語』には、建久四年(一一九三)三月下旬の源頼朝の上野・下野下向の際に「武蔵国関戸宿」に宿泊しており(資一―597)、翌建久五年六月十三日にも同じ「武蔵国関戸宿」の記載がある(資一―604)。時代は下るが、十六世紀には「関戸宿」に問屋が設けられており、流通の中継地として機能していた(資一―790)。
ところで、「霞の関」の比定地には、多摩市関戸の他に東京都新宿区千駄ケ谷と埼玉県狭山市に比定する説がある。多摩市説以外の説を否定するものではないが、「霞の関」前後の行程を記載している史料を見ると多摩市関戸に所在した関所が「霞の関」と呼称されていたことは確実であろう。
中世の「霞の関」の景観については、十五世紀に活動した連歌師の飯尾宗祇による『名所方角抄』に次の様にある。
霞関、西に高岡あり、東向の所なれは、富士見えす、西より川流れたり、
この史料の記載を現地にあてはめてみると、西の「高岡」は桜ヶ丘の丘陵にあたり、鎌倉街道に沿って丘陵側に関所の施設があったとすれば、東に向っていたことになる。西から流れる川は、大栗川あるいは南西方向から流れている乞田川が該当するであろう。この「霞の関」が設置されていたと考えられる関戸五丁目辺りは、少なくとも中世以来の集落が継続して存在していたと考えられるが、一度だけ菊池山哉氏等により発掘調査が行われた。調査の時期は明らかではないが、一九六〇年から六一年にかけて東京都教育庁文化課の主導で行われた「浅川流域文化財総合調査」の一環として実施されたと考えられる。この調査では、関戸の鎮守熊野神社境内の土居とその延長線沿いに発掘が行われ、直線的に並んだ柱穴を検出している。菊池山哉氏は、この遺構を鎌倉時代における関所の南側柵跡と評価している(菊池一九六二)。しかし、時期に関しては根拠が薄弱であり、将来詳細な調査が望まれる。
多摩市史編集委員会編『多摩市史 通史編 一』、多摩市、1997年、p.613~p.614
「霞の関」建保元年新設説について
さて、この「霞の関」の設置に関して、建保元年(一二一三)十月十八日に新設されたという説が通説になっている。この説の初見は、関戸村名主相沢伴主の手により文政二年(一八一九)から天保七年(一八三六)の間に作成されたとされる『関戸旧記』である(比留間一九八三)。相沢伴主は『関戸旧記』の中で、『吾妻鏡』建保元年十月十八日条(資一―620)を引き、この時実検された「武蔵国新関」は、関戸の関であったとするものである。この説は以後も継承され、『南多摩郡関戸村誌』の古蹟の項でも展開されている。さらに、東京都文化財専門委員でもあった菊池山哉氏が、この説を踏襲したことによりほぼ定説化した観がある(菊池一九六二)。以後、「霞ノ関南木戸柵跡」が東京都の指定史跡に指定される際にも建保元年新設説が採用されている。
ところが、「霞の関」は建保元年以前にも存在しており、『吾妻鏡』の最もよく利用されているテキストである『新訂増補国史大系』本では、「武蔵国新関」ではなく「武蔵国新開」になっているのである。「新関」が「新開」であれば、この時鎌倉幕府は新に開発した耕地を実検したということになる。この説に関しては、既に『新編武蔵国風土記稿』巻之九十八において「スデニ建暦以前関戸ノ名。昭著タレハ当所ノ新関ニアラサル事必セリ。」と疑義を呈している。ただし、「関」と「開」の文字がくずし字になればたいへん似た文字になる。この点に関しては、『吾妻鏡』諸本の校合が必要であろう。この場合、多摩郡の有力御家人横山氏が反乱に参加した和田合戦の直後でもあり、鎌倉を防備するために武蔵国内に関所を新設したと読む可能性は残される。しかし、いくら「新関」という文字が正しかったとしても鎌倉に通じる武蔵国内の街道は「上道」ばかりではないのであり、加えて新設された関所が一か所であるとも限らないのであって、「霞の関」に特定はできないのである。
以上の様な理由により、「霞の関」の建保元年新設説は成り立たないが、このことは「霞の関」の史跡としての地位をおとしめるものではなく、反対に鎌倉幕府成立以前からの存在を窺わしめることとして認識すべきであろう。
谷川彰英『埼玉 地名の由来を歩く』、KKベストセラーズ、2017年、p.157~p.172
(1)東京「霞ヶ関」に疑問符、本当の霞ヶ関はどこにあったのか?
BEST TiMES(ベストタイムズ)
https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7201/
(2)埼玉にも「霞ヶ関」があった。さらに深掘りするとその本拠地は…
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https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7203/
(3)旧柏原村にあった「霞ヶ関」の跡を訪ねる。
BEST TiMES(ベストタイムズ)
https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7211/
筆者注)文中に登場する「仏子村」は「上廣瀬村」の誤りである。
(4)「霞ヶ関」をめぐる三つ巴の争い。都心、川越以外にも多摩にあった!?
BEST TiMES(ベストタイムズ)
https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7212/
新村霞ケ関村の造成に関する郡長の当初の構想は、明治十七年(一八八四)の笠幡村聯合戸長役場管轄区域の笠幡、的場、安比奈新田、柏原の四か村の合併であった。その理由とするところは、「各村独立ニ耐ユへキ戸口及資カナシ、且地形民情於テ故障ナシ」ということにあった。
関係村に対する郡長の諮問が行なわれると、笠幡、的場、安比奈新田の三か村は、都長案に同意する旨を回答したが、怕原村の場合は、左にかかげるような答申書を提出して、笠幡村聯合を脱することを希望した。
答申書
高麗郡柏原村
今般町村制發令ニ依リ笠幡村聯合ハ現今ノ儘ヲ以テ一自治區トナスノ利害ヲ御諮詢二候處柏原村ノ如キハ笠幡村聯合ヲ脱シ度候其理由左二開陳仕候
笠幡村聯合ハ地盤活澣二過キ本村ノ如キハ聯合役場ヲ距ルコト三拾餘町ニシテ殊二山林中ニテ往復不便ナルノミナラス諸税徴収ノ際ハ多額ノ金圓ヲ携帯往來セシモノナレハ甚夕危險ノ恐ナキ能ハス加之各村二比シ地價町歩二差違アリ經費ノ割合ニ不平均ヲ生ス此ヲ以テ笠幡村聯合脱スル理由トス而テ本村分離ノ上ハ左ノ通治定相成度意見二有之候
第一條 根岸村聯合卜合併致シ度然カスルトキハ地盤上ノ形象モ宜シク殊二各村落ノ中間ニ山林モ介セス僅二耕地アルノミニシテ殆ント人家二接スルト云フモ不可ナシ且水利堤防上好都合ナルハ不俟言シテ明瞭セリ而テ其村名ハ霞村卜致度候
第二條 第一條ニ依リ根岸村聯合へ合併スルコト能ハサルトキハ柏原村一村ヲ以テ獨立致度而テ其村名ハ柏原村卜致度候
第三條 若シ戸數僅カニシテ第二條ニ依ルコト能ハサルトキハ柏原村卜安比奈新田ヲ以テ一村トナシ而テ其村名ハ柏原村卜致度候
右ノ通相違無之因ヲ以連署此段答申仕候也
明治二十一年九月十日 增田彦四郎 外三名
笠幡村聯合戸長 西村周太郎殿
※〔表〕下に掲載
以上のような柏原村の主張に対して、笠幡村ほか二村も、柏原村の離脱を認めたので、県、郡当局も柏原村をもって独立の一村とすることとして、新村は笠幡村、的場村、安比奈新田の三か村をもって発足することになった。
なお新村名は古い庄号に基づき、霞ケ関村と称し、役場位置を笠幡に置いた。
一方、市長伊藤泰吉は、昭和二十一年就任した当初から市域拡張を図らなければ川越市の発展はありえないと信じ、 合併機運の盛り上がりとその好機をねらっていたのである。すなわち市長は
「二十年間外地で官吏をして引き揚げて川越市に帰ったとき、あまりにも変化がないのをみて、その原因について、つぎのように考えたのである。その第一は市の面積が小さいということである。要するに十七平方キロという小さな面積に五万人という人ロがはいって一平方キロ当たり三千人という過密都市では、工場敷地や公共施設の敷地を求めるにしても、まとまって広くとれない状況である。
第二には交通が悪い。国鉄の幹線に沿っていないために、県下で一番先に市制をしいたけれども、どうも遅れがちになる。交通問題を解決しなければ川越市は伸びない。
第三には古い商業都市であり、農村に利用されているけれども工業がない。いくつかの工場はあるけれども本当に大きな工場というものを持たない。
この三つの問題が解決できれば川越市はもっと発展する。それから文教方面では、大学をもってきたいということが希望でした。」(川越市役所「市・村合併聞き書」)
このように市長はときいたれば隣村の合併を実現しようとする腹案を持ち、市議会側もまた川越市の発展を隣村の合併に期待するという態勢にあったところへ、昭和二十八年(一九五三)九月町村合併促進法が公布されて、埼玉県内でも上述のように町村合併が奨励される態勢となり、人間地方事務所を中心として、人間郡の町村合併促進運動がすすめられてきた。
この運動の本来の目的は、シャウプ勧告でうたわれた「地方自治体の自主性の確立」いう理念をめざしての「町村規模の適正化」にあったことは いうまでもないが、現実には、町村という地方自治体の自発的な合併というよりも、国や、県が町村合併についての政策的指導を行ない、町村を行政単位、財政単位と考えて、その規模の適正化をはかるという性格が、濃厚であったことは、前に述べた本県における合併促進法の実施の概要からも容易にうかがわれるとおりである。
その点は、浦和、川口、熊谷、行田、秩父、所沢、飯能など各市において、この時期の合併に反対する運動や紛議が、多かれ少なかれさまざまな形態で発生し、当事者が種々腐心を余儀なくされた事実や、川越市周辺の入間郡下の町村合併下試案が、川越市とはまったくなんらの連絡もなく、入間地方事務所長のもとで独自に作成され、のちに述べるように川越市の下試案と並行して、県に提出されるに至った経過などにも明らかにあらわれていた。
後者について立ち入ってみれば、入間地方事務所は、県の方針をうけて入間郡の町村長会の幹事会に下試案の作成を求め、関係者を地方事務所に参集させて、内々に作業を進めていた。その内容は、文字どおり管下町村の合併促進案で、川越周辺の山田村と芳野村、南古谷村と古谷村、福原村と大東村、霞ケ関村と名細村を、それぞれ合併して四ブロックにしようとするものであり、一方また川越市に山田、芳野、名細、古谷、南古谷の荒川右岸の水田農村五か村を合併し、福原村、高階村、福岡村の三か村と、大東と霞ケ関の二か村をそれぞれ合併して、三ブロックにする案も検討されていた。これらは基本的性格において、地方自治体の社会的、経済的発展に沿った区分というよりも、行政単位としての町村の合併という観点がつよくあらわれており、もしこれらの下試案のいずれかが実施に移されたとしても、相当な紛議を呼んだであろうことは明らかであった。
ところが偶然の機会から、昭和二十九年(一九五四)の一月に、この情報が市長伊藤泰吉の手に入ったため、市長は、急拠、当時の市助役荒井益美、同じく総務課長新井正義、市議会議長西川卯八の参集を求め、川越市独自の合併試案の作成について協議し、隣接九か村に大井、福岡の二か村を加えた十一か村合併案が、川越市独自の案としてまとめられるに至ったのである。この案はすでに述べたように川越市の内部に醸成されつつあった合併への機運を背景としたまったく自発的な提案であり、川越市の歴史的、社会経済的結びつきを念頭に置いて作成されたものであることは市長伊藤泰吉のつぎのような構想のなかにも、明確にうかがえる。
「隣接九か村と福岡、大井を入れると、市としての形態がよくなるというわけで、福岡、大井の両村は、鶴瀬ブロックではあったが加えたのである。隣村の九か村は、いずれも地つづきであり、歴史的にも深い関係にある。川越の明治になるまでの沿革をみると、大きな殿様もあるし、最後の松平周防守のような、小さい殿様で禄高の少ない城主でも九か村というものは城付きの領土だった。福岡とか大井とかいうのは、川越の領地になったり、はなれたりしたことはあったけれども、この九か村だけは川越城主の城付きの領地であった。そうした歴史的事実が頭にあったことと、学校の少ない明治初年ごろ学校組合をつくったときは、川越と九か村でつくっており、教育的にも一緒にやってきて、特別な関係にあって、歴史的にも感情的にも一緒になれるであろうというので、この九か村だけは一村もはなさない、というねらいでした。」
この川越市の市、村合併下試案は、同年二月助役荒井益美が、県総務部長守屋陸蔵に手交して、市の構想の説明を行なっているが、これはすでに述べた地方事務所の下試案を、規模においてはるかにうわまわる合併案であったばかりでなく、明治維新いらいの行政単位としての町村制の編成替で、周辺の経済圏との結び付きを寸断されて以来、この失なわれた結びつきを一歩一歩と回復して来た川越が、明治、大正、昭和にわたる社会経済的発展の成果を背景に、一挙に取り戻そうとする内容をもったものであり、伝来の地域経済圏に市の行政区域を適合させ、そこに工場や、公共施設、住宅の敷地を確保し、市勢を振興しようとする川越市多年の宿願を、町村合併促進法の施行を好機に、実現しようとするものであった。
この川越市の十一か村合併構想は、大井、福岡を除いた九か村合併案となって県試案として採択されるに至ったが、それには 入間地方事務所側が、前所長であった荒井益美の関係している川越市下試案の実現に心よく協力したことも手伝っており、新市建設の実現にとっては助役荒井益美の功績は大きいといわねばなるまい。
こうして町村合併促進法に基づく大合併は緒についたのであるが、これによってながい間川越市民の間につちかわれてきた大川越建設の念願は、具体的な姿をとりはじめたのである。そして明治維新いらい一世紀に近い間、行政区画のうえで伝来の社会的、経済的な結び付きをたたれていた周辺農村と川越とが、一体となって新しい都市建設に当たることができるようになった点で、この大合併は当時の市長伊藤泰吉のことばにもうかがわれるように、ひとつの歴史的必然であったともいえよう。
しかしこの一世紀近い期間に、川越周辺の農村は、農業における商業的発展に伴なって、明確な地域的分化が浮き彫りされ、南部の商業的畑作地帯と、北部の水田単作的地帯とは、村落経済のうえに鋭い対照を描き出すに至っており、社会構成や住民の思想にも大きな相違が生まれていた。そのことは自治体財政のうえにも大きな影を投じており、合併に対する態度も、北部の農村地帯では、いわば積極的な賛成を表明したのに対して、南部では種々な論議に日を重ねざるを得ない結果となったのである。
霞ケ関村
本村は入間川を挾んで川越市に隣接しているので他の隣接村より遠く、特に笠幡地区は市の中央部から約八杆の距離に在り、川越にもっとも近い的場でも五秆はあるうえに、入間川を越えると一面の水田地帯である。この川越に遠いということが、合併反対のひとつの理由であった。いま一つの合併反対の理由は、財政的に比較的他の地区よりも恵まれていたということであった。それは霞ケ関カントリ―クラブ〔ママ〕のゴルフ場、帝国火工品製造株式会社川越工場などがあって、村の財政を豊かにしていたということ、一方川越市が赤字財政であったということが合併反対の理由であった。また笠幡地区の人びとが反対していた理由には、隣接の鶴ケ島、高萩両村に親戚もあるが、川越市には比較的縁故が少ないという血縁、地縁の関係が影響していたとも思われる。殊に笠幡地区たけにおいては鶴ケ島、高萩の三か村を一丸とするブロックで合併して新しい村をつくろうという意見さえ強くしかも鶴ケ島、高萩側からも呼びかけが相当あったことが市への合併反対の勢いをさかんにした要因であったとすれば尚更のことである。
ところか村長幡 宥秀は村全体の将来を考えて、高萩、鶴ケ島と合併した場合将来性がないこと、合併村の中心をどこにするかという場合、困難を伴なうおそれがあること、また経済的な面でも、教育面でも、川越市と深いつながりがあることなどを考慮して、川越市への合併を実現するのがよいと、村民一致納得して市合併に決るよう努力を重ねた。そして村長は当時村の四割程度が合併反対であり、笠幡の九部落中の五部落が中立、絶対反対が四部落という状況であったので、それらの部落を訪ねて座談会を開いて説得したが、徹頭徹尾反対されて村長としても非常に苦労した。しかし村長は個人的な立場においては、その反対理由はよくわかるが、村全体という立場を離れて、そのまま反対の人びとの意見に服することはできずとして、苦労を重ねた。そして反対する人びとの立場を認めながらも、それらの人びとにも村全休の将来からみて、川越市への合併することの意義を納得されるよう努力した結果、漸く合併の機運が兆すこととなったので、合併実現に日時を要したわけである。この間、高萩、高麗、高麗川の三村は三高協議会を発足させて、高萩村からの働きかけはしないことに、高萩村長も了解し地方事務所側と霞ケ関村とも協議連絡があり、九月十三日には、研究会員が所沢市の旧村部落を視察した結果、各部落とも合併後の成績が良好あるということで、合併についての心配もうすまり、九月中旬ころには次第に川越市への合併機運が好転してきた。その上村の中央部から選出された鈴木泰平も熱心に合併推進に努力する一方、反対の人びとも村全体態勢を考えて、不満ながらも納得するようになり、合併決定に時日を要したとしても、納得のゆくまで部落を回った村長の熱心は、結果として好結果を生ずることとなったのである。また名細村の関根初治はじめ有志の陰の力によって村内の有力な反対者も協力するようになったことも、見のがし難いことであり、さらに川越市側の委員が、村内を刺激しないように配慮して、深更に説得または連絡に村内へ赴くという程の苦心をしたことも注目すべきである。
霞ケ関村
(昭和三十九年十一月二日)
答える人 もと 霞ケ関村村長
現 川越市議会議員
幡 宥秀
問
この地区は大東とならんで、非常にむずかしいことのあった地区であり、幡さんは当時村長さんとして、文字通り矢面に立って苦心されたわけですが、当時のお考え、それから、ご苦労なすった点、村の動いていった形、それから合併後の今日において、当時を考えられていろいろ、反省なすっている点もあるだろうと思われるし、よかったと思われる点もあるだろうと思われるのですが、そうした点などについて、忌憚(きたん)ないお話をうかがわせていただきたいと思います。たとえば合併に決まるまでの村の状態とか、それから、反対された主なる理由、またそれをどういう形で合併に納得させたか、あるいはこの霞ケ関自体で、川越とは別に、ほかの村と合併したいとかいうようなことが、あったのではないかと思いますが、そうした事柄などについて当時をふり返っていただきましてお話をお願い致したいと思います。
幡氏
霞ケ関は結局川越に遠いということ、それがひとつの反対の理由じゃなかったかと思います。
それから財政的に比較的他の地区よりも恵まれていたということ。というのはゴルフ場があり、帝国火工があり、比較的財政を豊にしておつたので、そういう点が多くの理由ではなかつたかと思.います。
川越が赤字だったからというようなこともありますが、それが反対の理由のひとつではあったでしょうが、それほど重きをなしていなかったと思います。
第一笠幡地区が主として反対が多かったが、これは非常に、その隣接町村に親戚が多いとか、要するに縁故深い人があったということが笠噃方面にすれば川越に反対する理由になっていると思います。
したがって、笠幡とすれば、鶴ケ島・高萩・の三か村〔ママ〕を一丸とするブロックで合併して、新しいものをつくるという意見が相当深かったと思います。
それは先ほど申し上げましたとおり、鶴ケ島とか、高萩などに親戚もあり、川越には比較的縁が薄いということが、大きな反対理由となっています。
むろん、向こうからも霞ケ関に呼びかけておりまして、鶴ケ島のほうからも、高萩のほうからもすぐ隣り合っていますから、そんな関係で、向こうか.ら相当深くこっちへ呼びかけがあったわけです。
それに、霞ヶ関からも、相当向こうへ行きまして、川越へ行くならば、三か村で合併しょうじゃないか、ということがおきまして、それが反対の理由になったわけです。
しかし、わたしは、個人的立場からだったならば、あるいは、そういうこともあるかも知れませんが、村長という立場にいる以上は、村全体が将来を見とおして、百年の計を立てなければならんということから、どうも高萩や鶴ケ島と合併することは、どう考えても、将来性がないような気がするし、三村を合併して果たして中心をどこへ持って行くかということになると、なかなか将来困難を伴うような気がして、あんまり三か村合併には積極的には動いておりません。呼びかけはありました。それは当時の鶴ケ島の村長さんからも話がありました。しかし、行政支会が中心である以上は、やはり中部の各村と行動を共にしなければならんということが-。
霞ケ関村と川越市とは、文化の面でも、あるいは経済的な面でも繋がりは非常に深いわけです。それは、昔交通が不便な時代でも、皆、米を川越へ持って行って市場へ出すということが繋がっており、そのほか教育面でも非常に繫がりが深かったということを考えても、やっぱり霞ケ関は川越と合併するのがよいのではないかと、わたし個人としては考えておったんですが、なんとしても、大体において村の四割程度は反対があったわけです。
そこで、わたしは笠皤の人を、どういうふうに納得させるかと骨をおったんですが最後には笠幡の人たちもわたしの立場に同情したというか、だんだん川越市との合併に傾いていったわけです。というのは、各部落を歩いて、笠幡が九部落ありますけれども、そのうち四部落は、どうやら、どっちでもいいという考え方になり、五部落は絶対反対で、なかなかその部落へ行って座談会をはじめても、問題にならないんです。頭から反対されまして、そのうえ二、三時間相手はただ話を聞くだけでね。それぁ、まあ、笠幡の人たちの気持ちもよくわかるんですよ。よくわかるんだが' どうも時代というものを考えれば、笠幡のほうの人の考え方がなんか、こう、昔堅気でかたい点はあるけれども時代的には、いくらかズレがある。ということを考えておったわけです。
その当時、霞ケ関の遅れた理由は、そういうところにあったわけです。
恰度二十九年の十一月二十三日には、大体もう見とおしがつきましたが、それまでの八月・九月•十月それから十一月と、約四か月間は非常にむずかしい場面があったんです。
まあ、笠幡はそういうような、過去のなんといいますか、川越市へ遠いという理由もありましようし、また、隣村とは親しい関係にあった。ということも無理からぬ反対の理由だったんじやないかと思います。しかし最後は非常に理解していただいて、万場一致で合併ができたわけですが、わたし個人としては反対の方がたも反対するだけの理由はあるし、無理のないことだと思っていましたが、村長という立場からすると、どうもその一方的な考え方であってはならないし、同時に、合併するなら万場一致でやりたい。多数決でいきたくない。どこまでも霞ケ関全体がひとつになって、それでまあ、不満を持ちながらも、ある程度は納得して川越へ合併したいと思いまして、そうした線で合併推進に当たったため、余計に時間がかかったわけです。多数決で議会が決めるのなら川越市への合併派が多数いるという見とおしはありましたが、それでは、地区の円満にならないということから、時間をかけたわけです。
都築総務部長
一般的に、裕福な村がそうだったんです。大東はそうだし、ここがそうだし—。
幡氏
そうなんです。あの当時、ここが大体人口が六千のちょっと上だったですかナ。それから恰度わたしが村長のとき、約一千万円ばかり金をかけて、小学校の改築をし、それから中学の特別教室を作りまして、財政的にはいつもゆとりがあったわけです。
それだけに、川越に世話にならなくも、われわれは、われわれで行こうじゃないか。という考え方が村民の間にあったと思います。
もっとも問題のなかったのは、山田・芳野・これぁ、問題がなかったでしようし、山田あたりは、小さい四百位の世帯だったでしょう。ここは千以上の世帯ですし、人口で約六千以上だったでしょう。
それから、その当時の合併の条項による、八千という人口を規準にする、ということがありまして、だから八千位には直ぐななるんだから、いいじゃないか、ということもあったわけです。
それから、合併の話がありましたのは、二十七年五月ごろでしたが、このころはどうも、なかなか軌道に乗りませんでね。八月末でしょうかね、なんか、川越で会合がありまして―。
問
二十八年五月一日に伊藤市長が、各村の村長さんと、村会議員さんに一応あいさつという形ででているようですね。
幡氏
そのころは、合併なんてまだ遠い話のような感じだったんです。その当時は―。
問
笠幡というのは、大体どの辺から向こうですか。
幡氏
この部落が笠幡です。ここの部落、それから三田、これぁまあどっちとも反対しませんでした、それから同じ笠幡でも、西部、わたしのぼうから上ですね。それからひとつには、よそから相当に強力な動きがありましたからね。それでまあ、さらに積極的に動いたでしょうね。
問
あれは、高萩が日高にはいったですね、どっちが早かったでしょうね、決まるのは。川越のほうへ、こっちが決まるのと。それから向こうのほうへ働きかけて、向こうへ大体あの高麗川と高萩と高麗ですか、これは、あの大体煮つまるのと。
幡氏
まあ、むしろ、こっちよりも向こうが早かったでしょう。これあね、霞ケ関がもう、いかに高萩で働きかけてもだめだということを見とおしたんですね。
問
鶴ケ島がこちらへ合併したいというとき、村長さんはどんなふうな―。
幡氏
あの村長さんは、やっばり鶴ケ島は、鶴ケ島で行くんだ。霞と合併できないんじゃ、単独で行くんだという考え方のようでしたね、高萩と合併しょうということもなかつたようです。
問
その問題は、やはり後に残らなかったようですね。
幡氏
残らなかったです。
問
県のほうで、いろいろと出張所長などを集めて、合併案について説明していますが、そのときある程度、具体的なものでも、暗示を与えるようなことがあつたでしようか。
幡氏
そのう、川越市へ合併することについてですか。
問
ええ、あるいは、二、三村でやるのがよいとか、たとえば鶴ケ島と霞ケ関と高萩あたりの合併がのぞましいとか。
幡氏
県のほうはそういうふうなことはいっていません。ただわたしたちの耳にはいったときは。その前に、まあ、いろいろ案があったようですがね。二、三か村の合併がよいんだとか。しかしうわさばなし位ですね。あの当時は—。
問
霞ケ関では、町村合併促進法が制定された当時、霞ケ関村自体で、村長さんあるいは村会議員さん方で、こういうのが出たんで、さて、われわれはどうしょうかというような相談が出たでしょうか。
幡氏
出ました。しかしその当時は、それほど合併ということに関して深い関心をもっていなかったです。
問
法律とか、いろんなものができてもですか。
幡氏
それは、先ほど申し上げましたように、八千という人口なら大東だって一村でできるじゃないか、名細だってじき八千になるんだと、いうことで、あんまり合併ということを深く感じていなかったです。だから その当時から、もう少しわたしたちも研究しておけばよかったのです。
問
どこでもそのようですね。具体的に二十九年の二月十六日に町村合併試案というのを県下市町村で配ってありますが、そのあたりから盛り上がっているようですね。
都築総務部長
そうなんです。二十九年五月ごろからこれぁ、どうしてもやらなければならないんだという空気になり、坂戸ブロックができ、鶴瀬ブロックができるというような―。
問
他の村と一緒に川越と合併しなくちゃならないというのは、主としてこの村以外の山田とか、芳野とか、中部行政ブロックの間で—。
蟠氏
それは、そのブ口ックの間で川越と合併するんだということは、話し合いというようなことは、正式にはしなかったです。
ただ行政支会が同じだから、どうもやむを得ないじゃないか、ということは各村の村長さん方はみんな考えていたようです。霞ケ関なんか殊に、そういう話もできなかった。だからわたしもその線は無論出しませんでした。
問
二十九年の十月二十日決定して―。
幡 氏
十一月です。十一月の、二十三日か四日ごろですね。霞ケ関もやむを得ないんだと、全体で話をまとめたのは。恰度神社の祭典のときですから。
問
十一月の何日でしょうか。
幡氏
十一月の二十三日です。
問
そのときの記録がないでしょうか。
幡氏
それぁ、記録にはないでしょう。正式には村会で議決したのは翌年の一月二十九日ですからね。
このときはまだ大東は、はいっていないんですよ。大東の村会の決定は三月ですからね。
都築総務部長
第一段階で八か村だけ合併しておいて、大東が決まつたらいつでも受け入れるという条項を付して、八か村だけで一応やったんですね。
幡氏
大東の村長さんは、わたしの恩師でもあるので弱りました。『川越市なんかに合併してもしょうがない。君とおれのほうで、合併しょうじやないか。』というようなことをいわれまして—。
都築総務部長
何回か、やっぱり笠幡の人が、大東に呼びかけに行ったりしたんですね。
幡氏
わたしのほうはまあ、動かないで—。橋本先生から話があってもね。別にどうということはありませんでした。
都築総務部長
的場のほうだとかは、最初からはっきりしていましたね。
幡氏
地理的に考えてもね。
都築総務部長
殊に中心の鈴木泰平さんが川越市との合併には非常に熱心だったようですね。
幡氏
とにかくわたしの一生にとっては大きい思い出です。そのために眠らない晩も相当ありました。
当時のわたしたちは、個人的には相談しないことにしていました。相談すると、ああいった、こういった、と、あとがうるさくて収拾がつかなくなるのです。ですから公式に各部落を回って歩きました。ほとんど毎日各部落を回りまして、合併についての説明を行ない、各人の意見も聞いて、村の利益のために方向づけをして歩いたのです。